「正しい宗教と信仰」カテゴリーアーカイブ

Q64 結局、宗教は教団のお金もうけじゃないの?


御指摘のとおり昨今(さっこん)の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金もうけに専念しているのが現状です。
ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。たとえば目を患(わずら)っている人に対して「目の玉は丸いでしょう。目の因縁(いんねん)を切るために、丸いもの(お金)を供(そな)えなさい」、また足の悪い人には「足は”おあし”(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などと、まったく人をばかにした、”ごろ合わせ”や”こじつけ”で無知な人をだましています。もっと悪質なものになると「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を捨てなさい。そのためにはあなたの財産を神様に捧げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
こんな宗教は明らかに金もうけを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。
では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽(けんさん)し、修行し、布教するためには、それを賄(まかな)う資金がなければなりません。
仏典(ぶってん)には、菩薩(ぼさつ)の修行として貧者(ひんじゃ)に物を与える布施行(ふせぎょう) が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳(しゃっくるいとく)の行いであると賞賛(しょうさん)しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、
「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・御書1173頁)
と仰(おお)せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠(じゅず)や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。
また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向(えこう)の塔婆(とうば)供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。しかし、日蓮正宗では総本山大石寺をはじめ各地の末寺でも、賽銭箱(さいせんばこ)などは一切ありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意にかなわないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀や法事などにおいても『お経料とか、戒名(かいみょう)料もありません し、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。 日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践(じっせん)している唯一の宗団なのです。

Q65 自分の宗派だけを正しいとするのは 「エゴ」では?


「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己主義(りこしゅぎ)という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では 捨閉閣拠(しゃへいかくほう)といって他経を捨てよ閉じよと教えまし、禅宗では教外別伝(きょうげべつでん)といって 釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心(いしんでんしん)で自宗のみに伝えられている、と主張します。
宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争に明け暮れています。これらのすべては 自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。
たしかに、周囲を無視し、道理や現証(げんしょう)を無視して、いたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、 真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で”悪しきエゴ”の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て”宗教は
すべてエゴだ”と速断して宗教全体を否定することは、けっして賢明な態度ではありません。
難解な宗教教義を判定する一つの基準 として、原因があって結果が生じるという、因果律(いんがりつ)に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神はだれによって作られたかという点は説いておりません。神道(しんとう)でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については合理的な説明がありません。仏教において初めて”三世(さんぜ)にわたる因果律”を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰依(きえ)する宗教が不完全なまま、民衆に信仰と尊崇(そんすう)を呼びかけることこそ"悪しきエゴ"というべきです。
仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら修行する能力を調(ととの)えていき、最後にもっとも功徳力のある法華経を出世(しゅっせ)の本懐(ほんがい=目的)として説きあらわしたのです。
釈尊自身も、
「私が今まで說いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既(すで)に説いたもの(已說=いせつ )、今説いたもの(今説=こんせつ)、将来説くであろうもの(当説=とうせつ)、それらのなかで この法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・法華経325頁取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを説かれています。
日蓮正宗では、正法によって衆生救済(しゅじょうきゅうさい)を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的(ふへんてき)な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪であると主張しているのです。

Q66 世界平和を説く宗教が、 他宗を攻撃し争うのは矛盾してない?


平和といえば、その反対が戦争であることは、だれにでもすぐ思い 浮かぶでしょう。
戦争とはいうまでもなく国と国とが武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望のみを充たそうとするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒(ふんぬ)による場合があります。これを瞋恚( しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。そのほかに高慢心や猜疑心(さいぎしん)が争いのもとになることもあります。
国家間の戦争も個人と同じように、人間が本来、生命に具(そな)えている貪瞋癡(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑(まんぎ)を加えた五悪心(ごあくしん)の作用に起因(きいん)します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法(まっぽう)といって、劫濁(こうじょく=時代・社会そのものの乱(みだれ))、煩悩濁(ぼんのうじょく=苦 しみの原因となる貪瞋癡などの迷い)、衆生濁(しゅじょうじょく=人間の心身両面にわたる汚れ)、 見濁(けんじょく=思想の狂いや迷乱(めいらん))、 命濁 (みょうじょく=生命自体の濁り)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われるときであると予言されています。
たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。 これらの社会問題が貪瞋癡の三毒という、単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起こっているわけですから、表面的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないということはだれでも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらなければならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばお互いに三毒強盛(ごうじょう)の人間が動かしている国政・軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
質問のように戦争と破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏(しゃくぶく)とを同一視して自語相違だといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相(せそう)を仏法によって浄 化(じょうか)し、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつ うぶっしょう=だれでも仏に成る可能性を持っ た尊い存在ということ)、自利利他(自分も他人も共に幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽(しんぎ)を厳格に区別し、選択しなければなりません。
私たちの布教はけっして争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間性を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想は平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったとして、それのみを取り上げ、自語相違だ、矛盾だ、無益だと非難しているようなものです。 本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための、破邪顕正であることを知るべきです。

Q67 南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じでは?


「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈(かいしゃく)すれば、妙法蓮華経すなわち法華経に帰依 (きえ=南
無)するという意味です。
日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
しかし日蓮大聖人は、
「今いま日蓮が唱ふる所の題目は前代に異ことなり、自行化他じぎょうけたに亘わたりて南無妙法蓮華経
なり」(三大秘法抄・御書1594頁)
と仰(おお)せられ、大聖人が建長五(1253)年四月二十八日に唱えいだされた南無妙法蓮華経は、いまだだれも唱えなかったものであると説かれています。
さらに大聖人は、
「仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・御書685ペ頁)
「彼(かれ)は脱(だつ)此種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄・御書六五六頁)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異なったものであると示されています。
では、南無妙法蓮華経の本当の意味は何かというと、
「無作(むささんじん)の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・御書1765頁)と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我が身として悟さとられた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう「法華経の行者」とは日蓮大聖人にほかなりません。 これについて、さらに、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体(とうたいなり)」(御義口伝・御書1773頁)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ、一切衆生(いっさいしゅじょう)を救済(きゅうさい)する本門の本尊であると示されています。
したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者・日蓮大聖人の当体なのです。
大聖人は、
「本尊とは勝れたるを用(もち)ふべし」(本尊問答抄・御書1275頁)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝(おが)んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名(かいみょう)に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに背(そむ)くとともに、大きな悪業を作ることになります。
人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼に当たるのと同じ理屈です。
せっかく日蓮大聖人を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意にかなった正しい御本尊に向かって唱題すべきです。

Q68日蓮聖人の史跡を訪れ参拝をしているから充分


日蓮大聖人は、
「日蓮を用ひぬるともあしく(悪)うやまはゞ国亡(ほろ)ぶべし」(種々御振舞御書・御書1066頁)
と仰(おお)せられています。この言葉の意味は、日蓮を尊敬し崇(あが)めても、正しく敬(うやま)わなければ国が亡ぶ、というのです。
一家が悪しく敬えば一家が亡び、個人が正しく敬わなければ個人が亡ぶという道理です。
では、日蓮大聖人を正しく敬うとはどういうことでしょうか。
御書には、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄・御書577頁)
とも、
「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(撰時抄・御書867頁)
とも記(しる)され、自(みず)から末法の一切衆生(いっさいしゅじょう)の主師親(しゅししん)であり、人々が日蓮大聖人に帰依して「南無日蓮大聖人」と礼拝すべきことを説かれています。
そして、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・御書1773頁)
とも、
「此の曼荼羅(まんだら)能(よ)く能く信じさせ給ふべし(中略)日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書685頁)
とも仰せられ、末法の教主日蓮大聖人の当体(とうたい)・魂魄(こんぱく)のすべてを書き留(とど)められた漫荼羅御本尊を信じ拝するよう教えられています。
漫荼羅のなかでも、弘安二(一二七九)年十月十二日に図顕された一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大漫荼羅が根本中の根本たる本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊なのです。
また大聖人は、
「檀戒だんかい等の五度(ごど)を制止(せいし)して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜(いちねんしん げしょずいき)の気分(けぶん)と為すなり。是則(これすなわち)此の経の本意なり」(四信五品抄・御書1113頁)
と仰せられているように、末法の仏道修行は布施(ふせ)や戒律(かいりつ)などの修行を捨てて、ひた
すら本門戒壇の大御本尊に向かって唱題することなのです。これが大聖人を正しく敬うということであり、本意にかなう信心なのです。そのためには、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の精神を正しく清浄に伝えている日蓮正宗の信徒として、信心しなければならないのです。
次に史跡についていえば、大聖人の本意にかなう正しい信仰を実践した上で、ゆかりの地を訪れ(おとず)、往時をしのぶことは悪いことではありません。
しかしここで注意すべきことは、まず現在、大聖人の史跡として宣伝(せんでん)されているもののなかで、鎌倉時代からそのまま保存されている建物はほとんどありません。
また場所も、長い時間の経過のなかで地震や津波などによって地形が変化したり、史跡がわからなくなったものがほとんどです。そして何よりも大切なことは、史跡の真偽は別として、そこにある寺院が大聖人の精神を正しく受け継ぐ日蓮正宗の寺院なのか、それとも大聖人の精神に反した邪宗寺院なのかということです。
まず、もしあなたが史跡めぐりだといって大聖人の精神から外れた日蓮宗の寺院に詣で
るならば、それこそ大聖人を「悪しく敬う」という謗法(ほうぼう)を犯(おか)すことになるのです。