Q67 南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じでは?


「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈(かいしゃく)すれば、妙法蓮華経すなわち法華経に帰依 (きえ=南
無)するという意味です。
日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
しかし日蓮大聖人は、
「今いま日蓮が唱ふる所の題目は前代に異ことなり、自行化他じぎょうけたに亘わたりて南無妙法蓮華経
なり」(三大秘法抄・御書1594頁)
と仰(おお)せられ、大聖人が建長五(1253)年四月二十八日に唱えいだされた南無妙法蓮華経は、いまだだれも唱えなかったものであると説かれています。
さらに大聖人は、
「仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・御書685ペ頁)
「彼(かれ)は脱(だつ)此種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄・御書六五六頁)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異なったものであると示されています。
では、南無妙法蓮華経の本当の意味は何かというと、
「無作(むささんじん)の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・御書1765頁)と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我が身として悟さとられた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう「法華経の行者」とは日蓮大聖人にほかなりません。 これについて、さらに、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体(とうたいなり)」(御義口伝・御書1773頁)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ、一切衆生(いっさいしゅじょう)を救済(きゅうさい)する本門の本尊であると示されています。
したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者・日蓮大聖人の当体なのです。
大聖人は、
「本尊とは勝れたるを用(もち)ふべし」(本尊問答抄・御書1275頁)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝(おが)んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名(かいみょう)に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに背(そむ)くとともに、大きな悪業を作ることになります。
人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼に当たるのと同じ理屈です。
せっかく日蓮大聖人を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意にかなった正しい御本尊に向かって唱題すべきです。