もし信仰が趣味や道楽、あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きか、きらいかで判断され、きらいであれば、近づかなければよいわけです。
正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろん、特別悩みがないという方に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真の幸福を獲得する道が説かれているものです。
したがって、あなたが、信仰を単に好きやきらいの感情だけで決めることは、ご自分の人生の根本を趣向で決定することであり、賢明な方法とは申せません。
たとえば、人は誰でも、子供の頃は、善悪や他人の評価にとらわれず、好きか、きらいかという自分本位の感情で、笑ったり泣いたりします。やがて成長し、社会人になると、好き、きらいの感情に、理性による判断が加わり、物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。 続きを読む Q1 ともかく信仰に関するものは何でも嫌いです! →
現在、日本にはおよそ二十二万の宗教団体があります。
永い歴史と伝統をもつ宗教から、最近生まれた教団まで、それらは多種多様です。歴史を誇る宗教は、伝統と古めかしい教義を説き、また最近誕生した新興宗教は、人間の耳目(じもく)を惑まどわす、小さな通力(つうりき)や利益(りやく)を説いて、ひとりでも多くの信者を引きつけようと懸命です。
「信仰はもうこりごりだ」というあなたは、こうした宗教に一度ならず足を踏ふみ入れ、願い叶かなわずむなしい思いを味わたことと思います。多くの方々が、今もその麻薬のような利益に執着し、抜けられないでいます。何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然のことです。だからといって、正しい宗教も邪(よこしま)な宗教も、十把一(じっぱひと)からげにして、すべてを否定することは、軽率過すぎるのではないでしょうか。 続きを読む Q2 どんなに良くても宗教はもうこりごり! →
仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩や迷いを解決するために説き明かされた教えです。ですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入はいることは当然のことでありましょう。 続きを読む Q3 信仰は貧乏人や病人がするもので、興味がない! →
たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。
続きを読む Q4 強要ではなく本人の意思で決めるものでは! →
信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。「悪い人」といっても、悪い考えに染まった人、悪い癖(くせ)を持った人、自分で気付かずに悪業(あくごう)を犯す人などさまざまです。 続きを読む Q5 悪い人間は信仰があってもいるのでは? →
「信仰するほどの悩なやみはない」というのは、言い換かえるならば「悩みのない人は信仰の必要がない」ということで、信仰についてよく理解していないようです。 続きを読む Q6 信仰を必要とするほど悩みはありません? →
「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。
普通「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位がある人物、名誉のある人、財をなした方、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する方々、社会的な悪と闘う人物などが挙げられます。さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過している人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。 続きを読む Q7 立派な人は信仰心がなくても大勢いるよ? →
一般に信仰とは、お年寄りが精神修養や先祖を敬いお寺に参詣し、親しい仲間となごやかな交流の場を持(たも)つために、時には団体旅行をする程度にしか考えていない方が多いようです。 続きを読む Q8 どうして人間にとって信仰をする必要があるの? →
多くの場合、「強い人」とは、ひとつの目的に向かって種々の障害があろうとも、それを乗り越えていく努力ができる人のことを言うようです。一方、 続きを読む Q53 信仰は、弱い人間がするもの? →
土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。