Q6 信仰を必要とするほど悩みはありません?


「信仰するほどの悩なやみはない」というのは、言い換かえるならば「悩みのない人は信仰の必要がない」ということで、信仰についてよく理解していないようです。

例えば、交通事故で、誰か自分と関係ない方が亡くなったというニュースを聞いたとします。しかし、気の毒ぐらいで、おそらく一日中、泣き嘆くということはないでしょう。ところが、自分の息子が交通事故に遭い、相当のケガでもしたら、大変な痛手でしょう。まして死んだりしたら三日三晩、泣き叫んでもなお足りないほど嘆くに違いありません。

人間と言うものは、遠くの人の痛みや苦しみについてあまり感じないということです。他人のことは割合、平気なのです。けれども、たまたまそれが自分の身に当たってくると初めて、「ああ、情けない」という事が身にしみてくるのです。

実際、子供の教育や親のことはいうまでもなく、自分の老後のことなど「今のままで満足だ」と、のんびり構えていられるのでしょうか。

日蓮大聖人は、
 「法華経は現世安隠(げんぜあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)の御経なり」(弥源太殿御返事・御書723頁)
と仰せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければならないと説かれています。

また大聖人は、
「賢人(けんじん)は安(や)すきに居(い)て危(あやふき)を欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲(おも)ふ」(富木殿御書・御書1168頁)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を砕くだいているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸(あんいつ)をむさぼろうとするだけであると説かれています。

今が幸せだということは、譬(たとえ)ていえば平坦(へいたん)な舗装(ほそう)道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険(けわ)しい登り坂もあれば泥沼の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正な智慧(ちえ)がなければなりません。難所(なんしょ)にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難悪路(けんなんあくろ)に遭遇(そうぐう)しても、それを楽しみながら悠々と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。

法華経には、仏さまがこの世に出現された目的は、仏知見(ぶっちけん)すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄(せいじょう)で自在の境地と、深く正しい智慧(ちえ)を、衆生に対して開き示し、悟さとり入らしめるためであると説かれています。
そして法華経宝塔品(ほうとうほん)には、
 「此の経を読み持(たも)たんは是(これ)真の仏子(ぶっし) 淳善(じゅんぜん)の地に住(じゅう)するなり」(開結三五五)
と説かれ、正しい仏法に帰依(きえ)する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏(あんのん)な境地(きょうち)に住することができると教えています。

強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を積つまなければ決して開発されるものではありません。どうか目先の世界や自己満足に閉とじこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に賢い人間となり、幸福な人生を築かれてください。