Q63 宗教の世界は、科学的根拠(こんきょ)や証明があいまいではないか


「科学的」とはいったいなんでしょう。普通、科学とは物事や現象(げんしょう)について、その性質・変化・他との関係などを、実験をとおして体系化(たいけいか)し、応用(おうよう)を考える学問のことです。
この科学の基本となる道理が因果律です。すなわち一定の物事(因)が一定の条件と作用(縁)によって一定の結果を生ずること、たとえば酸素と水素を一定条件のもとで化合すれば、だれがいつどこで行っても、必ず水を生ずるようなものです。この普遍的な因果律(いんがりつ)が「科学的」という言葉の意味でしょう。
さて、この原則をもって現在の多様化した宗団・宗派を見ると、質問のような“あいまい”な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。
なかには、教祖が発狂状態になったことを、神が宿ったと称して支離滅裂(しりめつれつ)な言葉を神のお告げとして崇めるものや、祭壇に供えた水は霊験があるといって病状を無視して多量の水を飲ませるもの、あるいは 煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や、迷信としかいいようのない宗教も数多くあります。このようないかがわしい宗教は別として、文証・理証・現証に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な眼をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で計れないからという理由だけで、現実の事象を否定したり 非科学的、と決めつけることは、それこそ”非科学的”な態度というべきでしょう。
近代の科学は物質文明のなかで発達し、多大の貢献をしてきましたが、精神文明、ことに人間の心に関してはまったく遅れた状態です。
にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して説かれた仏法 を、人智の集積ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは 無理な話です。
それはあたかも、尺とり虫が自分の歩幅と歩数で、空を飛ぶ鳥の飛距離を計ろう としているのに似ています。
もし、どうしても日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証せよというのならば、釈尊の予 証 のとおり現実の 濁世に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に遭いながら一切衆生を成仏せしめんと、大慈悲をもって大御本尊を図顕建 立された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜と希望に満ちた人生を歩んでいるという実証こそ、“科学的”現実そのものではありませんか。
将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生させ、豊かな生命力を涌現させる仏法が、七百五十年間、富士大石寺に厳然と伝えられ、未来永劫にわたって全世界の民衆を救済しようと威光をもって照らされている事実を知るべきでしょう。