Q62仏教の法話は現実離れしたおとぎ話に聞こえるが


あなたがもし、仏典の因縁や譬喩の部分だけをとり挙げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄な言動といえましょう。仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に留意し、耳を傾けるべきです。

釈尊は、
「吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の譬喩(ひゆ)をもって廣く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して」(方便品第二・開結八九)
と説いています。すなわち仏は自ら悟った甚深の法を、人々に説くに当って、さまざまな因縁(原因・助縁)、あるいは譬喩(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を用いて導くというのです。
天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、
 「樹を動かして風を訓え、扇を挙げて月を喩す」(御義口伝・新編一七三三)
と記しています。
この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が揺ぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付かない人には、身近な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。

私たちは自分の幸不幸を目先の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己の生命に内在する仏の生命の涌現によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮させることです。
そのためには、仏が悟られた真実の教法に帰依し、仏の御意に叶った信心修行に邁進しなければなりません。しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏の境界などは、あまりにも深遠すぎてとうてい理解できるものではありません。だからといって、仏法は難解だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心立命の人生も築くことはできません。ここに仏の化導のための手段が必要になるのです。