Q39 霊媒を介して、本当に死者の声が聞ける?


霊媒(れいばい)は人間と死者の霊を媒介(ばいかい)する者で、わが国では青森県恐山の〝いたこ〟が有名です。

この〝いたこ〟は依頼者の求めに応じて神がかりとなり、口寄(くちよせ)によって死者の思いを伝えたり、その心をなぐさめる役割をしているのですが、最愛の人を失った遺族にとっては、故人が今なにを考え、どういう状態であるかを知りたいと思うのは、人情として無理からぬことといえます。

文明の発達した今日、霊媒が存在し口寄せなどが、今なお続けられている現実は、いつの時代にあっても、死者への思いは変わらないという、あかしでもありましょう。

たしかに、故人の声をもう一度聞くことができれば、遺族の気持ちは休まるかも知れませんが、死者の気持ちを知ったところで、悲しみに打ちひしがれた心をなぐさめることも、消し去ることも、できないのです。

それは、釈尊の弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)が、小乗(しょうじょう)の悟りによって得えた神通力(じんづうりき)で、餓鬼道(がきどう)におちて苦しむ母を救おうとしても救うことができなかった故事(こじ)に例えられましょう。

結局、目連尊者は法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて母親を成仏に導くことができたと説かれています。
仏教には感応道交(かんのうどうこう)の原理が説かれており、仏と衆生(しゅじょう)との間に相通(あいつう)じて感じ応ずる働きがあるといわれます。これを悪用したのが霊媒信仰なのですが、仏の教えを除外して単たんに迷いの衆生と死者が感応したからといって真の救いになるわけではありませんし、かえって共に苦しむ結果になるのです。

まして、現在の霊媒や〝いたこ〟と称する者のほとんどは、それを商売の手段としているだけで、死者と感応する力はないのです。
いずれにせよこのような霊媒は、仏法本来の目的から逸脱(いつだつ)した邪道なのですから、絶対に頼るようなことは、あってはなりません。