Q35 道徳を守ることが何より大切、特別に宗教は必要なし!


道徳とは現実社会で、善良な人間として生きて行くために、みずからを律(りっ)し、社会的に守るべき、人それぞれの、よりどころとなるお手本をいいます。

しかし、道徳は、生きている人間の規範であって、それで、先祖を救い、みずからの罪障(ざいしょう)を消滅し、子孫に幸せをもたらすなどという力はありません。
つまり道徳は、仏教のように過去・現在・未来、三世(さんぜ)の因果(いんが)が説かれておらず、生きるための今世(こんぜ)限りの指針とはなりえても、三世にわたる一切の人々を救済することは出来ません。

日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、
 「王臣(おうしん)を教へて尊卑(そんぴ)をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依(きえ)をしらしむ」(開目抄・御書524頁)
と仰おおせになり、道徳は仏法の先がけとして、その序分(じょぶん)の役割をはたすものと記しるされています。

昔から道徳では、「孝養(こうよう)」ということがよくいわれます。自分を生み、今ある自分を大事に育ててくれた両親に対し、よく仕(つか)えることで、その恩に報(むく)いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、親の言葉にただしたがい、ものを贈ったり、年老(としお)いた両親の面倒をみることに止まらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家、一族、一門の人々を皆共(とも)に救っていくというところにきわまります。

したがって仏法では正法による孝養を、「上品(じょうぼん)の供養」(=もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養を「下品(げぼん)の供養」(=上・中より下の供養)にあたるとされています。

大聖人は、
 「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏(ほとけ)になるのみならず、父母仏になり給ふ。上(かみ)七代下(しも)七代、上(かみ)無量生(むりょうしょう)下(しも)無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以て普(あまね)く一切に及(およぼ)し、我等と衆生と皆共(とも)に仏道を成(じょうぜん)』」(盂蘭盆御書・御書1377頁)
と、正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地(きょうち)に至るだけでなく、無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。

このように、今世(こんぜ)限りを説く道徳ではなく、過去、現在、未来の三世(さんぜ)を説いた正しい信仰をとおして自分を磨(みが)き、さらに世の中の人々を教化(きょうけ)して、正法の功徳を社会の一切の人々に及(およぼ)し、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方となるのです。