Q36 最近、無神論者です!という人が多いが何故イケナイなの?


無神論とは、信仰の対象となる神や仏など、絶対的存在の事実と可能性を否定する考えで、「無信論」と書くこともあります。無信論といっても、信用とか信頼などの日常生活上の心理作用まで否定するのではなく、あくまで宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないということです。

また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的(ゆいしんてき)な主張をくりかえす方もいます。たしかに、ほとんどの宗教で説かれる神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果(いんが)の道理に外(はず)れた空想の産物ですから、無神論を唱えることも無理からぬことことでありましょう。

このことに関して面白いお話があります。
あるキリスト教の教会で、全智全能(ぜんちぜんのう)の神について語り終えた牧師に向かって、ひとりの少年が尋(たず)ねました。「何でも可能な全智全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造つくれますか?」と。牧師は返答に窮(きゅう)して口を閉じてしまったということです。
このお話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛盾(むじゅん)にみちたものであるかを、短い中に鋭(するど)く指摘しています。
だからといって、無神論が正しいということではありません。これまでに無神論者と称(しょう)する人たちが、神や仏がまったく存在しないということを立証(りっしょう)できたでしょうか。また、あなたは、少なくとも仏教に耳を傾(かた)むけ、仏典(ぶってん)をひも解いたことがあったでしょうか。

もし、あなたが自(みずか)らの大変狭く、小さな体験や臆測(おくそく)をもって、無神論を主張するなら、それはあまりにも単純で、はなはだしい無認識(むにんしき)の評価だといわざるをえません。

参考までに今ここで、仏教について、簡単に概略を説明いたしましょう。
仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していた超現実的(ちょうげんじつてき)な絶対神を立てる宗教を邪義として排斥(はいせき)し、自からの修行と思索(しさく)によって悟(さと)り究(きわ)めた法を五十年間にわたって、くり返し丁寧に説き、最後に究極(きゅうきょく)の実教(=釈尊の教え)たる法華経を宣説(せんぜつ)されたのです。その教えは、因果の理法を基底として、法界の真理と人間生命の実相を開示するものであり、衆生が(しょう)・(ろう)・(びょう)・(し)の四苦を根本的に解決して真実の幸福境界に至ることを目的としたものでした。

そして、釈尊が説いた法華経に予証(よしょう)されたとおり、末法の御本仏が、日本に日蓮大聖人としてご出現されたのです。
大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血(しんけつ)を注(そそ)いで多くの教えを遺(のこ)すとともに、一切衆生成仏の法体(ほったい)として大御本尊をご図顕(ずけん)されました。

この大聖人の仏法は、経文に照てらし合わせ(=文証)、因果律や現実の道理に照らし(=理証)、実際に信仰した結果を見ても(=現証)、一点の曇くもりもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。

もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力(くどくりき)を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞(こ)い、自ら仏道を求めるべきでありましょう。

日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然(げんぜん)として存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。

この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固執(こしゅう)するならば、大変かたよった考えの持ち主といえましょう。
 
大聖人は、無信・無行の者に対して、
 「謗(ぼう)と云ふは但ただ口を以(も)って誹(そし)り、心を以って謗るのみ謗には非あらず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(戒体即身成仏義・御書10頁)
と仰せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背く大罪であると、固く戒(いま)しめられているのです。