Q30 いまが楽しい!だから、ほっといて?


「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、将来のことをまったく考えず、苦しみを避け、いまの楽しみだけを追い求めるというニュアンスが感じられます。

それは、おそらく、若いときの楽しみは若い今しか味わえないという考えから、オートバイの爆音や、ロック音楽の喧噪(けんそう)のなかに我れを忘れ、お酒や歌、そしてダンスに気持ちを奪われ、うっりと酔い浸ったひと時を生きる若者に共通した考え方であると思います。

反対に、いまの楽しみよりも将来のそれに向け、つらさに耐え、自分のもてる能力や才能を少しでも伸ばそうと、一生懸命に努力している若者たちも、けっして少なくなくありません。

深く考えることなく目前の快楽のみを求める若者たちの生き方は、蟻(あり)とキリギリスの寓話(ぐうわ)をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べ、あまりにも人として物事の善悪をわきまえない生き方であり、後には必ず苦しみや後悔(こうかい)がともなうことを忘れてはなりません。

だからといって、人は若いときには何が何でも努力して、楽しみなどを求めてはならない、というのではありません。何事にも柔軟に対応できる青年期こそ、本当に楽しんで生きていくための人生の土台を、しっかり築き上げる時であると言いたいのです。

「楽しみ」の本質について、仏教では、五官(ごかん)から起る欲望を五識(ごしき)によって満たし、意識(=心)にここちよく感ずることであると説明(ときあ)かしています。

五官とは、眼(げん)/視官(しかん)・耳(に)/聴官(ちょうかん)・鼻(び)/嗅官(しゅうかん)・口(こう)/味官(みかん)・皮膚(ひふ)/触官(しょっかん)をさします。
すなわち、眼にあざやかな色形(いろかたち)を見る楽しみ、耳にここちよい音や響を聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅(か)ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(=身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲(ほっ)するところを五欲(ごよく)といい、これを五官によって判断することを五識といいます。

要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲のひとつ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合に応じて起こる、情感であることがわかります。

したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩(ぼんのう)つまり貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)などの迷いが働きかけた時、はじめて五欲は、無謀性(むぼうせい)を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意(こころ)のままに満たされない不満がつのって、怒を感じたり、落胆のあまり、自暴自棄(じぼうじき)になったりして、自分や社会を破壊してしまうことにもなりかねないのです。

五欲とは、ちょうど火のようなものだといえましょう。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使い方次第によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに燃やして、跡形もなく無くしてしまう、ということに例(たと)えられられます。

いわば、一時の快楽を飽(あ)きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ盛んだともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に変えさせるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。