Q29世間では、高学歴で高い地位ほど幸せ!と思われるが?


レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大企業や官公庁に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人がおります。

このことについて二つの点から考えてみましょう。
その第一は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十~五十代の、社会的に重要な地位にあるエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みでノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっているようです。

確かに、現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくには、身心ともに大きな負担がかかるのは当然のことです。
ではなぜ、私たちはそんなに苦労の多い地位を望むのでしょうか。その理由(わけ)は、人に負けたくない、人の上に立ちたいという願望と、もうひとつは地位が上がれば、経済的に豊かになる、周りからも敬(うやま)われるなどが挙(あげ)られます。

しかし、もし願いどおりの地位についたとしても、それに性格が適さなかったり、負担に堪たえる能力がなければ、その人は苦痛の日々を送ることになるのです。こんなことでは、高学歴であっても本当に幸福の要件が満たされるのかどうか、疑問視せざるをえません。

第二の点は、学歴至上主義がもたらす弊害がいかに大きいか、ということです。
幼ころから、一生懸命に勉学に励(はげ)み、一流と言われる大学を卒業した人達は、能力的に優れています。その深い学識と幅広い教養による英知は、どんな社会や職場にあっても、知的資源として重要視されることは当然のことでしょう。

しかし毎年、一流大学合格を目指し、受験に失敗して自殺する子供たちが多くいます。幼いころから親や先生の「有名校に入る子は優秀、入れない子は敗北者」という言葉を聞いて育ったならば、不合格が人生の破滅につながると考えるのはおかしなことではありません。
まさに学歴偏重の風潮が生む不幸の一面であり、その中で育った子供は、さらに学歴偏重の人生観を増幅していくのです。
このような教育制度や教育行政のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革しようとしても根本的な解決にはなりません。なぜなら、教育問題は時代や社会機構全体と深く関わっており、さらには人生観・物事の価値観とも深く関わっている事柄だからです。

以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位が、個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉につながるわけでもないことがおわかりでしょう。
 
釈尊は現代を予言して、末法は五濁(ごじょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱れ、人の命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
健全な人生観や社会思想は、一人ひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着したときに徐々につくりだされるのであり、真の幸福は表面的な学歴や肩書きによってではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるものなのです。

したがって、身につけた学識と教養、そして社会的な地位など、一層充実したものとし、価値あるものとするためには、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。