Q28 さわらぬ神にたたりなし!近づかないのが賢明では?


「さわらぬ神にたたりなし」とか「参(まい)らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持もたなければ、利益(りやく)も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には、なにごとも近づかなければ無難であるという意味に広く使われています。

誤った宗教には近づかない方がたしかに無難ですが、こと正法(=正しい仏法)に対して、このような考えを持つことは間違いです。
釈尊は、
「今(いま)此(こ)の三界は皆(みな)是(これ)我(わが)有(う)なり。其の中の衆生は悉(ことごと)く是吾(わが)子なり」(譬喩品第三・開結一六八)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟(さとら)れた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃がれることはできません。

また仏教では宇宙全体を指して法界(ほうかい)といいますが、
日蓮大聖人は、
「法界一法として漏(も)るゝ事無き」(御義口伝・御書1798頁)
と仰おおせられ、仏が開悟(かいご)した法は宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。

ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。

もし正法に近づかなければ、真の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の暮らしが、法を破る悪業の積重ねとなっていくのです。

ましてや仏の慈悲(じひ)は人を救すくい善導するところにあるのですから、たたりなどあるわけがありません。罰といっても、親が我が子を導(みちび)く手段として叱ると同じで、これも親の愛情の一分(いちぶん)であることを知らなければなりません。

その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといって、コソコソ逃げ回っている子供と同じで、およそ健全な人間に育つはずはありません。

いかに自分では信仰と無縁のつもりでも、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、また仏の掌(たなごころ)の上で生きていることに違いはありません。ですから、自からの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため、正しい仏法(=日蓮正宗)に一日も早く帰依(きえ)することが大切なのです。