Q26 結局のところ、宗教は精神修養にすぎないのでは?


精神修養とは、精神を錬磨し品性を養い人格を高めることですが、一般には心を静め精神を集中することをいうようです。

芸術やスポーツなどを通して精神を磨き、人格を高めるならば、それは立派な精神修養です。
しかし数多い宗教のなかには、精神修養の美名を看板に掛け布教するものがあります。その代表的なものとして禅宗があげられましょう。煩雑(はんざつ)な毎日に明けくれている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会が少ないためか、管理職者や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅が取り入れられ、ブームになっているようです。

では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し、心を定めて動じないことを禅定あるいは三昧といい、仏道修行のための初歩的な心構えとして説かれており、これが仏教の最終目的でないことはいうまでもありません。

また人格品位の修養についていえば、仏教の中の小乗教(しょうじょうきょう)では、悪心悪業の原因は煩悩(ぼんのう)にあり、煩悩を断じて身も心も正された聖者になることがもっとも大切であると説き、戒律(かいりつ)を守り智慧(ちえ)を磨くことを教えました。

これを十界の中の声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)に対する二乗(にじょう)の教えといいます。しかし大乗教(だいじょうきょう)では、自分だけが聖者になっても他を救おうとしないのは狭小(きょうしょう)な考えであり、思考や感情に誤りのない聖者でも、それだけでは真実の悟りではないと、小乗教を排斥(はいせき)し、自他ともに成仏を目指めざす菩薩の道を示めしました。

そして釈尊は、究極の教えである法華経を説き、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏乗(いちぶつじょう)といって衆生を仏の境界に導くことに尽きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(かいさんけんいち=三乗を開いて一仏乗を顕す)といいます。

もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直(ただち)に現今の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性の向上を計(はか)る精神修養の意義(いぎ)が含ふくまれているといえましょう。

釈尊は、
 「如来は但一仏乗(ただいちぶつじょう)を以(もって)の故に、衆生の為に法を説きたもう」(方便品第二・開結一〇三)
と説かれ、
日蓮大聖人も、
 「智者・学匠(がくしょう)の身と偽りても地獄に堕ちて何の詮(せん)か有あるべき」(十八円満抄・御書1519頁)
と仰せられるように、仏法の目的は精神修養などに止とどまらず、成仏すなわち三世(さんぜ)にわたる絶対的な幸福境界の確立にあるのです。

したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤っているだけでなく、仏教本来の目的からも大きく逸脱(いつだつ)する罪を犯す結果になっているのです。