Q25 常識的にも神や仏が実在するとは思えない?


はじめに神についていえば、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが経典に示しただけのことで、現実にこの地上にその姿を現わしたことはありません。

天理教の天理王の命(みこと)や金光教の天地金乃神(かねのかみ)なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現われたことはありません。
また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように、菅原道真(すがわらのみちざね)とか明治天皇などの歴史上の人物を祭(まつ)祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことです。、神本来の働きをもっているわけではありません。

本来、神とは原始的時代の自然崇拝(すうはい)の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用やたらきには、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端(たん)を発しています。

したがって真の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではなく、神社などに祭られて礼拝(らいはい)の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育(はぐく)むことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけです。

仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味(ほうみ)といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光(いこう)と法の力を得て善神(ぜんじん)として人間を守り、社会を護(まも)ると説いています。

これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用(りきゆう)を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然(げんぜん)とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺(のこ)されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ方はいないでしょう。

釈尊が説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証(よしょう)、つまり予言されました。その予言とは、法華経を行ずる故に刀や杖あるいは瓦石(がしゃく)で迫害されること、悪口罵詈(あっくめり)されること、しばしば所払(ところばらい)の難に遭あうこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことです。

この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底(もんてい)の法華経を説き、未来永劫(えいごう)の人々のために大御本尊を顕あらわされた御本仏こそ日蓮大聖人なのです。

日蓮大聖人は、示同凡夫といって、ひとりの人間の姿としての人格の上に本仏の境界(きょうがい)を現実に示されたのです。

もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、言い掛かりというべきです。