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Q68日蓮聖人の史跡を訪れ参拝をしているから充分


日蓮大聖人は、
「日蓮を用ひぬるともあしく(悪)うやまはゞ国亡(ほろ)ぶべし」(種々御振舞御書・御書1066頁)
と仰(おお)せられています。この言葉の意味は、日蓮を尊敬し崇(あが)めても、正しく敬(うやま)わなければ国が亡ぶ、というのです。
一家が悪しく敬えば一家が亡び、個人が正しく敬わなければ個人が亡ぶという道理です。
では、日蓮大聖人を正しく敬うとはどういうことでしょうか。
御書には、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄・御書577頁)
とも、
「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(撰時抄・御書867頁)
とも記(しる)され、自(みず)から末法の一切衆生(いっさいしゅじょう)の主師親(しゅししん)であり、人々が日蓮大聖人に帰依して「南無日蓮大聖人」と礼拝すべきことを説かれています。
そして、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・御書1773頁)
とも、
「此の曼荼羅(まんだら)能(よ)く能く信じさせ給ふべし(中略)日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書685頁)
とも仰せられ、末法の教主日蓮大聖人の当体(とうたい)・魂魄(こんぱく)のすべてを書き留(とど)められた漫荼羅御本尊を信じ拝するよう教えられています。
漫荼羅のなかでも、弘安二(一二七九)年十月十二日に図顕された一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大漫荼羅が根本中の根本たる本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊なのです。
また大聖人は、
「檀戒だんかい等の五度(ごど)を制止(せいし)して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜(いちねんしん げしょずいき)の気分(けぶん)と為すなり。是則(これすなわち)此の経の本意なり」(四信五品抄・御書1113頁)
と仰せられているように、末法の仏道修行は布施(ふせ)や戒律(かいりつ)などの修行を捨てて、ひた
すら本門戒壇の大御本尊に向かって唱題することなのです。これが大聖人を正しく敬うということであり、本意にかなう信心なのです。そのためには、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の精神を正しく清浄に伝えている日蓮正宗の信徒として、信心しなければならないのです。
次に史跡についていえば、大聖人の本意にかなう正しい信仰を実践した上で、ゆかりの地を訪れ(おとず)、往時をしのぶことは悪いことではありません。
しかしここで注意すべきことは、まず現在、大聖人の史跡として宣伝(せんでん)されているもののなかで、鎌倉時代からそのまま保存されている建物はほとんどありません。
また場所も、長い時間の経過のなかで地震や津波などによって地形が変化したり、史跡がわからなくなったものがほとんどです。そして何よりも大切なことは、史跡の真偽は別として、そこにある寺院が大聖人の精神を正しく受け継ぐ日蓮正宗の寺院なのか、それとも大聖人の精神に反した邪宗寺院なのかということです。
まず、もしあなたが史跡めぐりだといって大聖人の精神から外れた日蓮宗の寺院に詣で
るならば、それこそ大聖人を「悪しく敬う」という謗法(ほうぼう)を犯(おか)すことになるのです。

Q69なぜ、宗教に正教と邪教があるの?


なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問うとき、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いをかなえてほしいといい、またある人は先祖の冥福(めいふく)を祈りたいなどと様々な答えがかえってくると思います。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば”とげ抜き地蔵"なるものまで、多種多様の宗教があります。
また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書、マリア像、キリスト像を拝むものなど様々ですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音(かんのん)、弥勒(みろく)などの菩薩(ぼさつ)、あるいは大黒天(だいこくてん)、弁財(べんざい)天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐にわかれています。
もし宗教が単に気休めや精神修養(せいしんしゅうよう)のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。
またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみてください。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接の影響を受けませんが、身近なものや信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであれば、なおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などはだれでも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗り物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶもの です。その選択の基準として、自分の経験や道理の適否、実験の結果、保証の有無、他者の評価などを考慮した上で、できるかぎり、高い価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義も様々ですが、日蓮大聖人は、
「小乗経(しょうじょうきょう)・大乗経(だいじょうきょう)並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・御書887頁)
と仰せ(おお)のように、三毒強盛の末法(まっぽう)の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、