誰でも先祖代々長く伝えられてきた宗旨には愛着があり、それを捨てることは先祖に背(そむ)くように思い、恐れに似た感情を抱いだくのは、無理からぬことです。
しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教を持(たも)ち、その寺の檀家(だんか)になったかということです。それを昔にさかのぼって考えると、多くは慶長(けいちょう)十七年(一六一二年)に始まる徳川幕府の寺請(てらう)け制度によって、強制的に菩提寺(ぼだいじ)が定められ、宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう=戸籍)をもって、長く統制されてきた名残によるものと思われます。
江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、移住するのにも、養子縁組するにも、すべて寺請けの手形の下付が必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家をやめることは許ゆるされませんでした。
したがって、当時の庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便(ほうべん)の教え(=仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという教えを聞く機会もありませんでした。せいぜい現世利益(げんぜりやく)を頼んで、檀家制度とは別に、有名な神社仏閣の縁日や祭礼に出かけたり、物見遊山(ゆさん)を楽しむぐらいだったのでしょう。
しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやく解けて、信教の自由が保障され、自分の意志で正しく宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。
言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力(くりき)によって、本当の意味で成仏に導くことができる時がきたのです。
釈尊の本懐(ほんがい)である法華経には、
「此の経は持(たも)ち難し、若もし暫(しばらく)も持(たも)つ者は我即(すなわち)歓喜(かんぎ)す諸仏も亦(また)然(しか)なり」(宝塔品第十一・開結三五四) と説かれています。
すなわち、世間の人々の中傷(ちゅうしょう)や妨害のなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、持たもち難がたく行じ難いからこそ、三世十方の諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。
また日蓮大聖人は、
「今日蓮等の類(たぐい)聖霊(しょうりょう)を訪(とぶ)らふ時、法華経を読誦(どくじゅ)し、南無妙法蓮華経と唱へ奉たてまつる時、題目の光無間(むけん)に至って即身成仏(そくしんじょうぶつ)せしむ」(御義口伝・御書1724頁)
と仰せられています。
ほんとうに先祖累代(るいだい)の父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳を供(そな)え、真実の孝養をつくすことが肝心なのです。
今、あなたが、先祖がこれまで長い間信仰して来た誤った宗教を、そのまま踏襲(とうしゅう)することは、あまりにも愚かなことです。
自分のこれまでの意(こころ)にしたがうのは、今すぐにお止めになり、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓し、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。