Q18 自分で気に入った宗教が何よりと思うが?


近年、世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。またアメリカにおいては、人民寺院を主張する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して果てるというすさまじい事件もありました。

こうしたことは、考えや言動、方法などがひどくかたよった例ですが、誤った思想や宗教の恐しさをありのままに象徴(しょうちょう)したものといえます。

人はかたよった思想や邪宗教にとりつかれてしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、その命すら自分たちの集団の論理で平気で葬(ほうむ)ってしまうのです。

思想や信条、ことに宗教という人間の生活のよりどころとなるお手本にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々(すがすが)しく健康的な考えでうら打ちされていることが必要です。そして人々を心の底から躍動(やくどう)させる歓(よろこ)びにあふれたものでなければなりません。

洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響(えいきょう)を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく自分のものとし、良いものと悪いものとを選びとることが大切です。

宗教が正しいか間違いか・優れているか劣っているかを知るためには、最低限その宗旨が何を本尊とし、何を信仰の対象(たいしょう)としているかということを、まずたずねる必要があります。

また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって救済(きゅうさい)されるだけでなく、地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。

日蓮大聖人は、
「同じく信を取るならば、又大小権実(ごんじつ)のある中に、諸仏出世の本意(ほんい)、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持(たも)つ処(ところ)の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よく)持(たも)つ人も亦(また)諸人にまされり」(持妙法華問答抄・御書297頁)
と仰せられています。

信仰を志(こころ)ざすならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願(せいがん)の尊(とうと)さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。そして永遠性や普遍性(ふへんせい)にとみ、広大無辺の功徳の備わった世界一の宗教を持(たも)つべきです。