Q12 どんな宗教にも、それなりに利益はあるでしょ?


すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分(いちぶん)の利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相が御利益(ごりやく)のように感じられるのでしょう。

生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。
また、祈祷師や占師などのように利根(りこん)や通力(つうりき)という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占うらない、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。
これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現れたものであり、あっても不思議ではありません。

人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれて様々な作用をするわけですから、周囲の状態(=縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。

しかし日蓮大聖人は、
 「利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・御書233頁)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒(いまし)めています。

宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場(きゅうば)しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界(うちゅうほうかい)を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。

したがって、一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教により、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。