Q11 宗教はどれも、よい教えを説いているはず?


これについて二点から考えてみましょう。
その第一は、教義の善悪(よしあし)とは何によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものであるということです。

教義の善し悪しとは
まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命(きみょう)し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、あるいは部分的な教えと大局的な教えの相違があり、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。

日蓮大聖人は、
 「所詮(しょせん)成仏(じょうぶつ)の大綱(たいこう)を法華に之を説き、其の余の網目(もうもく)は衆典(しゅうてん)に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄・御書915頁)
と仰せられ、法華経という大綱があって、はじめて法華経以前に説かれた諸々(もろもろ)の教えが生かされると説かれています。

仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道(しんとう)、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世(さんぜ)にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比くらべるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、 「無量義(むりょうぎ)とは一法より生ず」(無量義経・開結一九) ともいわれますように、唯一無二(ゆいいつむに)の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。

宗教には必ず実践がともなう
次に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、なんの役にも立ちません。
その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主(きょうしゅ)が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義(しょうぼうしょうぎ)を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性(しんぴょうせい)のある宗教だといえるのです。

たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は”釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する”というものです。しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律(かいりつ)の実践を説く教えもあれば六度(ろくど)の修行(布施ふせ・持戒じかい・忍辱にんにく・精進しょうじん・禅定ぜんじょう・智慧ちえ)もあり、以信得入(いしんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨すてたりするのでしょうか。

これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。
これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。
このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱(たいこう)と網目(もうもく)の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操(むせっそう)にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証(れいしょう)もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。

一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。