Q49 厄年なので心配です!きりぬける良い手は?


世間では、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄(たいやく)だなどといって心配している人が大ぜいいます。

厄という字は、もともとは木の節のことで、木に節があると製材や木工に困こまるところから転じて、災(わざわ)いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。また厄年の年齢区分についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生の折目にあたる年祝(としいわい)の行なわれた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の役を得る資格を得え、また壮年より老年組に入る節目のことで、けっして忌(いみ)きらうことではなかったのです。
女性の年齢区分でいえば、十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節目にあたる時期だったようです。

日蓮大聖人は、
 「三十三の厄は転じて三十三の幸(さいはひ)とならせ給ふべし。七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)とは是(こ)れなり。年は若(わか)うなり、福は重(かさな)り候ベし」(四条金吾殿女房御返事・御書757頁)
と妙法の信徒にとって、厄はけっして恐しいものではなく、むしろその時こそ若さを増まし、はつらつとして福徳(ふくとく)を積むことができるのだということを教えています。

大聖人は、
 「やくと申すは譬(たとへ)ば賽(さい)にはかど、升(ます)にはすみ角、人には関節(つぎふし)、方(ほう)には四維(よすみ)の如し」(日眼女釈迦仏供養事・御書1352頁)
と、さいころの角・升のすみ・人体の関節・方位の四隅などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと教示されています。

そうした時期に、単たんなる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合(ごろあわ)せをして思い悩むのはまったく馬鹿げたことだといわなくてはなりません。
また、世間の迷妄(めいもう)に紛動(ふんどう)されて、邪(よこしま)な神社や寺で厄(やく)ばらいなどを頼む人は、

大聖人が、
「善を修すると打ち思ひて、又またそばの人も善と打ち思ひてある程ほどに、思はざる外(ほか)に悪道に堕(お)つる事の出来(いでき)候そうろうなり」(題目弥陀名号勝劣事・御書331頁)
と説かれているように、かえってよけいに災(わざわ)いや魔が競(きそ)う、と説かれています。

また大聖人の、
 「厄の年災難を払らはん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・御書1224頁)
との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪信・邪説に惑(まど)わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮(ふる)い起こして、七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。