Q32 実生活をさげすみ、上から目線の宗教家は好きになれない!


世間に数多くいる宗教家といわれる人の中には表面上はいかにも聖職者(せいしょくしゃ)らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振舞い、世俗の人々を見下(みくだし)た態度をとる人がいます。
とくにキリスト教や戒律(かいりつ)を重(おも)んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人たちにこの傾向が強いようです。

しかし本当にこの世に生きる身で、世間の枠を超えて別の高みに至ることなどできるわけがありません。それこそ、〝霞(かすみ)を食って生きる〟ことなどできない相談なのですから、もし世俗を超越したように振る舞ったり、現実生活を蔑(さげす)む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々をだましているのです。

釈尊が説いた涅槃経(ねはんぎょう)には、末代の僧侶、いわゆる現在の宗教家といわれる人たちについて、
 「持律(じりつ)に似像(じぞう)して少しく経を読誦(どくじゅ)し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して其その身を長養(ちょうよう)し、袈裟(けさ)を著(ちゃく)すと雖(いえど)も猶(なお)猟師の細めに視(み)て徐(しず)かに行くが如ごとく、猫の鼠を伺(うかが)うが如し」 と説かれています。
この意味は、表面は戒律を持(たも)ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪(むさぼ)り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行(じょこう)し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。

また一方においては、先の僧侶のように表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心(よくしん)のみが旺盛(おうせい)な「葬式法事執行業」に成り下がっているのです。

これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には、正法を護持(ごじ)し清潔高邁(こうまい)な人格と慈愛を有する人もいます。また一般の在俗(ざいぞく)の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いは何が直接の原因なのでしょうか。

日蓮大聖人は、
 「法妙なるが故に人貴(たっと)し、人貴きが故に所尊たっとし」(南条殿御返事・御書1569頁)
と仰おおせられ、人が尊いか卑しいかは、受持(じゅじ)するところの法の正邪によると説かれています。
はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁(にごっ)てしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌嫌(いみきら)うならば、その元凶(げんきょう)である邪教悪法をけっして取り入れてはならないのです。

結論からいえば、濁悪(じょくあく)が世の隅々まで、はびこる末法というの現時の真の本仏は、法華経文底秘沈(もんていひちん)の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。

大聖人は、
 「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(一谷入道女房御書・御書830頁)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈(いつく)しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、器の水を一滴も漏らさず移すように、日蓮正宗の歴代の法主上人猊下(げいか)に受け継がれ、連綿として今に伝えられているのです。

日蓮正宗は、小乗教のような戒律(かいりつ)宗教でもありませんし、聖人君子(せいじんくんし)になるための宗教でもありません。正宗の僧俗(そうぞく)はともに正法たる大御本尊を信受(しんじゅ)し、行学二道に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進(しょうじん)しているのです。