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Q55信仰をすると奇異な目で見られるのが心配

 
人は皆生き方が違いますし、宗教に対する認識もそれぞれ異なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ももっていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。 また現代は宗教の時代といわれ、世間でも人生を充実させるために宗教の必要性を痛感している心ある人がふえているといわれています。 続きを読む Q55信仰をすると奇異な目で見られるのが心配

Q56特定の宗教へ入信すると人間関係に支障をきたすのではと不安


「特定の宗教」とは日蓮正宗を指していると思われます。ひとことで言えば、日蓮正宗に入信することが原因になって人間関係を損ねるということはまったくありません。もし特定の宗教に入信することが人間関係に支障をきたすというならば、宗教に限らず“特定の学校”に入ったら旧友と仲たがいするのでしょうか。“特定の会社”に入ったら友情にひびが入り、“特定の政党”を支持したら親子の断絶が生ずるとでもいうのでしょうか。
国籍が定まっている人は、“特定の国家”の一員であり、住所が定まっている人は“特定の地域”の住民です。このように国籍や職場・学校、あるいは政党に限らず、私たちは多くの“特定の”社会や集団・組織の一員として生きているのではありませんか。もし国籍も住所も不定であり、所属する職場や学校も定まらず、これといった信念も持っていないならば、その人はまったく信用されないでしょう。これが宗教となると、特定の信仰を持つことがいけないような錯覚にとらわれるのはなぜなのでしょう。
欧米の人々は自分がひとつの信仰を持つことに大きな誇りを感じ、堂々と自分が信じている宗派を披瀝(ひれき)します。ですから信仰を持っていない人間を心に深みとゆとりのない無教養の人として軽蔑するのです。「特定の宗教……」といって、ひとつの信念を持つことを忌みきらうような言い方をするあなたは、たとえば「私には心から尊敬している人がいます」というより、「私は誰をも尊敬しません」と答える方が、格好がよくて人間関係を損ねない利口な方法だと思いますか。 続きを読む Q56特定の宗教へ入信すると人間関係に支障をきたすのではと不安

Q57日蓮正宗入信で結婚や就職に影響するとこまる!


人それぞれに好みが違うように、宗教についてよく認識していない人の中には、日蓮正宗をこころよく思わない人もいるでしょう。 まして日蓮正宗は正邪のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を省みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻欠勤が多くなる、布教によって人間関係が損われる、などの点に対して心よく思わないようです。 続きを読む Q57日蓮正宗入信で結婚や就職に影響するとこまる!

Q58信仰を持つことで、仕事がおろそかになっては意味がない!


あなたが心配される点には、次の二つのことが考えられます。
まず第一は、信仰のために時間が奪われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても棚ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。 しかし、日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭なものではないからです。 続きを読む Q58信仰を持つことで、仕事がおろそかになっては意味がない!

Q59信仰をするといろいろ制約があり遊べなくなるのでイヤだ!


宗教のなかには戒律を定めて、教義的な制約をしているものが少なくありません。特にキリスト教やイスラム教・ヒンズー教などは、結婚や食物さらに医療に関することまで、細かく制約されています。仏教でも小乗仏教といわれるものには二百五十戒・五百戒などの戒律が定められています。
しかし人間の煩悩は八万四千ともいわれており、これらのすべてを戒律によって規制することは不可能なことです。
日蓮大聖人は、
  「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐(ほんがい)、一切衆生皆成仏道(かいじょうぶつどう)の妙法と云ふは是なり」(法華初心成仏抄・新編一三二一)
と仰せられ、戒律や智慧によって成仏するのではなく、根本の一法である南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって成仏すると教えられています。
したがって日蓮正宗の信仰には、教義的な制約や戒律などはまったくありません。ただし、人間を不幸に陥れる邪宗教を信ずることや謗法に与同することは固く禁じています。 続きを読む Q59信仰をするといろいろ制約があり遊べなくなるのでイヤだ!

Q60信仰は個人的にするもの、なので組織に入らなくてもよいと思う!


人間は誰でもきゅうくつな思いをしたり、束縛されることを好みません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉されず、気がねすることなく、好き勝手に過ごしてみたいと思うでしょう。言い換えれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約を受けることをきらうのです。
組織は共通の目的をもった複数の人間、または機能によって構成されています。無人島で一人で生きなければならなかったロビンソン・クルーソーの例を出すまでもなく、私たちは社会から離れてひとりで生きていくことはきわめて困難なことです。人間社会はお互いによりよい生活を享受することを目的にして、それぞれの立場で能力に応じた役割を分担し、社会に寄与することによって営まれているのです。
大きくいえば、社会全体が総合的な機構を持った組織体であり、この社会を国という単位 で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑に運営するために、規則や法律が存在します。これがさらにきめ細い共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を尽すとともに、その組織によって身を守り、生活の向上を計るなどの恩恵を受けるわけです。 続きを読む Q60信仰は個人的にするもの、なので組織に入らなくてもよいと思う!

Q61手を合わせて拝むのが恥ずかしい

 
手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄りくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見があるのではないでしょうか。いずれにしても“恥ずかしい”ということは、世間の目が気になる、周囲の人たちから変な目で見られないかという懸念があるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変った服装で街を歩いたとしても、別に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌がともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化させるようなものです。 続きを読む Q61手を合わせて拝むのが恥ずかしい

Q62仏教の法話は現実離れしたおとぎ話に聞こえるが


あなたがもし、仏典の因縁や譬喩の部分だけをとり挙げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄な言動といえましょう。仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に留意し、耳を傾けるべきです。

釈尊は、
「吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の譬喩(ひゆ)をもって廣く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して」(方便品第二・開結八九)
と説いています。すなわち仏は自ら悟った甚深の法を、人々に説くに当って、さまざまな因縁(原因・助縁)、あるいは譬喩(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を用いて導くというのです。
天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、
 「樹を動かして風を訓え、扇を挙げて月を喩す」(御義口伝・新編一七三三)
と記しています。
この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が揺ぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付かない人には、身近な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。

私たちは自分の幸不幸を目先の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己の生命に内在する仏の生命の涌現によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮させることです。
そのためには、仏が悟られた真実の教法に帰依し、仏の御意に叶った信心修行に邁進しなければなりません。しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏の境界などは、あまりにも深遠すぎてとうてい理解できるものではありません。だからといって、仏法は難解だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心立命の人生も築くことはできません。ここに仏の化導のための手段が必要になるのです。

Q63 宗教の世界は、科学的根拠(こんきょ)や証明があいまいではないか


「科学的」とはいったいなんでしょう。普通、科学とは物事や現象(げんしょう)について、その性質・変化・他との関係などを、実験をとおして体系化(たいけいか)し、応用(おうよう)を考える学問のことです。
この科学の基本となる道理が因果律です。すなわち一定の物事(因)が一定の条件と作用(縁)によって一定の結果を生ずること、たとえば酸素と水素を一定条件のもとで化合すれば、だれがいつどこで行っても、必ず水を生ずるようなものです。この普遍的な因果律(いんがりつ)が「科学的」という言葉の意味でしょう。
さて、この原則をもって現在の多様化した宗団・宗派を見ると、質問のような“あいまい”な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。
なかには、教祖が発狂状態になったことを、神が宿ったと称して支離滅裂(しりめつれつ)な言葉を神のお告げとして崇めるものや、祭壇に供えた水は霊験があるといって病状を無視して多量の水を飲ませるもの、あるいは 煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や、迷信としかいいようのない宗教も数多くあります。このようないかがわしい宗教は別として、文証・理証・現証に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な眼をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で計れないからという理由だけで、現実の事象を否定したり 非科学的、と決めつけることは、それこそ”非科学的”な態度というべきでしょう。
近代の科学は物質文明のなかで発達し、多大の貢献をしてきましたが、精神文明、ことに人間の心に関してはまったく遅れた状態です。
にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して説かれた仏法 を、人智の集積ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは 無理な話です。
それはあたかも、尺とり虫が自分の歩幅と歩数で、空を飛ぶ鳥の飛距離を計ろう としているのに似ています。
もし、どうしても日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証せよというのならば、釈尊の予 証 のとおり現実の 濁世に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に遭いながら一切衆生を成仏せしめんと、大慈悲をもって大御本尊を図顕建 立された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜と希望に満ちた人生を歩んでいるという実証こそ、“科学的”現実そのものではありませんか。
将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生させ、豊かな生命力を涌現させる仏法が、七百五十年間、富士大石寺に厳然と伝えられ、未来永劫にわたって全世界の民衆を救済しようと威光をもって照らされている事実を知るべきでしょう。

Q64 結局、宗教は教団のお金もうけじゃないの?


御指摘のとおり昨今(さっこん)の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金もうけに専念しているのが現状です。
ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。たとえば目を患(わずら)っている人に対して「目の玉は丸いでしょう。目の因縁(いんねん)を切るために、丸いもの(お金)を供(そな)えなさい」、また足の悪い人には「足は”おあし”(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などと、まったく人をばかにした、”ごろ合わせ”や”こじつけ”で無知な人をだましています。もっと悪質なものになると「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を捨てなさい。そのためにはあなたの財産を神様に捧げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
こんな宗教は明らかに金もうけを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。
では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽(けんさん)し、修行し、布教するためには、それを賄(まかな)う資金がなければなりません。
仏典(ぶってん)には、菩薩(ぼさつ)の修行として貧者(ひんじゃ)に物を与える布施行(ふせぎょう) が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳(しゃっくるいとく)の行いであると賞賛(しょうさん)しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、
「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・御書1173頁)
と仰(おお)せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠(じゅず)や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。
また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向(えこう)の塔婆(とうば)供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。しかし、日蓮正宗では総本山大石寺をはじめ各地の末寺でも、賽銭箱(さいせんばこ)などは一切ありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意にかなわないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀や法事などにおいても『お経料とか、戒名(かいみょう)料もありません し、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。 日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践(じっせん)している唯一の宗団なのです。