Q66 世界平和を説く宗教が、 他宗を攻撃し争うのは矛盾してない?


平和といえば、その反対が戦争であることは、だれにでもすぐ思い 浮かぶでしょう。
戦争とはいうまでもなく国と国とが武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望のみを充たそうとするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒(ふんぬ)による場合があります。これを瞋恚( しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。そのほかに高慢心や猜疑心(さいぎしん)が争いのもとになることもあります。
国家間の戦争も個人と同じように、人間が本来、生命に具(そな)えている貪瞋癡(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑(まんぎ)を加えた五悪心(ごあくしん)の作用に起因(きいん)します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法(まっぽう)といって、劫濁(こうじょく=時代・社会そのものの乱(みだれ))、煩悩濁(ぼんのうじょく=苦 しみの原因となる貪瞋癡などの迷い)、衆生濁(しゅじょうじょく=人間の心身両面にわたる汚れ)、 見濁(けんじょく=思想の狂いや迷乱(めいらん))、 命濁 (みょうじょく=生命自体の濁り)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われるときであると予言されています。
たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。 これらの社会問題が貪瞋癡の三毒という、単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起こっているわけですから、表面的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないということはだれでも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらなければならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばお互いに三毒強盛(ごうじょう)の人間が動かしている国政・軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
質問のように戦争と破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏(しゃくぶく)とを同一視して自語相違だといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相(せそう)を仏法によって浄 化(じょうか)し、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつ うぶっしょう=だれでも仏に成る可能性を持っ た尊い存在ということ)、自利利他(自分も他人も共に幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽(しんぎ)を厳格に区別し、選択しなければなりません。
私たちの布教はけっして争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間性を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想は平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったとして、それのみを取り上げ、自語相違だ、矛盾だ、無益だと非難しているようなものです。 本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための、破邪顕正であることを知るべきです。