仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩や迷いを解決するために説き明かされた教えです。ですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入はいることは当然のことでありましょう。
信仰を求める動機として、直接的に日常生活の支障となる病気や経済苦が挙あげられますが、最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなってきています。
人は誰しも、苦しみや困難に出会ったとき、その原因を考え、よりよい解決方法と再び失敗を繰り返さない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。実際、自分はこれでよしと思い進めてきたが、その結果がおもわしくなく、さまざまな問題が起きたその時、はじめて身動きがとれない我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台としての正しい信仰が必要であると、気付くのです。
日蓮大聖人は、
「病(やまい)によりて道心(どうしん)はおこり候か」(妙心尼御前御返事・御書900頁)
と仰せられ、病苦が信仰心を起す原因になるとも説かれています。
しかし入信の動機が何であるにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、正境(しょうきょう=正しい本尊)に縁することができたことに大事な意義があるのです。
妙楽大師は、
「たとい発心(ほっしん)真実ならざる者も正境に縁すれば功徳なお多し」(聖典八三三頁)
と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説かれています。
入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難することは、仏法の功徳力(くどくりき)を知らない人の愚な行為といわざるをえません。
最も大切な点は、多くの人々が正法によって病苦や経済苦を克服し、力強い人生を築いている現実、現証を知ることであり、いかなる境遇の人も必ず幸せになる日蓮大聖人の仏法の存在を知ることにあります。
大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就(じょうじゅ)せざるべき」(経王殿御返事・御書685頁) と仰せられています。
さらに法華経には、
「無上の宝聚(ほうじゅ)を求めざるに自(おのず)から得えたり」(信解品第四・開結一九九頁)
と説かれています。
これは無上の宝である成仏の境界(きょうがい)は自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教大師(でんぎょうだいし)は、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると讃たたえています。
この道心の動機がたとえ病気、経済苦であったとしても、なんら恥ずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入口となるのです。