私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて暮くらしている人もいるようです。
しかし幸福そうに見えていても、その実体はわからないものです。外見は大邸宅に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産争に明けくれている家もあります。また、現在は一時的に満足できても、明日の確かなる保障は、どこにもないのです。
したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと、軽々しく結論を下せません。また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業(ぜんごう)が、今の人々の身の上に余徳(よとく)となって現れている場合もありましょう。
信仰には、確かに現世(げんせ)の利益がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。たとえば、ある宗教を信じ、高名な霊能者などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったりすると、その宗教や霊能者に執心し、真実の仏法の正邪や、因果の道理にしたがった判断ができなくなってしまいます。
他の宗教で幸福になったと思う人も、大概(たいがい)はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に酔(よい)しれているようなものです。厳しい言い方をすれば、浅薄(せんぱく)な宗教を信ずるということは、より勝(すぐ)れた根本の教えを知らず、結果的には最勝の教えに背くということであり、その背信(はいしん)の罰(ばち)をのがれることはできません。
ちょうど、悩みや苦しみを、お酒によってまぎらわしたり、麻薬の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽から抜け出せず、結局、アルコール中毒や、取り返しのつかない廃人となってしまうように、他宗の小利益に執(しゅう)する末路には、大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰(だいばち)が待ちうけているということを知らなければなりません。
つまりは、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄のような生活に堕してしまうのです。
日蓮大聖人は、
「当に知るべし、彼の威徳(いとく)有りといへども、猶(なお)阿鼻(あび)の炎を免(ま)ぬかれず。況(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。況んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏(おそ)るべし畏るべし」(星名五郎太郎殿御返事・御書366頁)
と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象は、けっして功徳とはならず、むしろ、正法への帰依(きえ)を妨げ、不幸へと導く悪知識であると仰せです。
幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな望みを叶えることが挙あげられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたる、ゆるぎない成仏の境界(きょうがい)であって、真の幸福とはここに極わまるものなのです。
そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。