いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異なっています。キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依(きえ)が説かれ、コーランを所依(しょえ)の教典としています。儒教は孔子によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世(さんぜ)の因果律(いんがりつ)という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済が説かれています。
しかも同じ仏教の中でも、小乗教(しょうじょうきょう)は劣応身(れっとうじん)という仏を教主として戒律を説き、一切の煩悩(ぼんのう)を断じ尽(つく)した阿羅漢(あらかん)という聖者になることを目的としています。これに対して大乗教(だいじょうきょう)の中でも、華厳経(けごんきょう)を所依とする華厳宗、方等部(ほうどうぶ)から発した真言宗、淨土宗、禅宗などに加え、般若部(はんにゃぶ)の教理をもとにした三論宗(さんろんしゅう)など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異なっているわけです。
このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異なっているのです。もしあなたが〝宗教〟という大きな意味で、目的が〝救済〟ということだから、どれでも同じだというのは、あまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。それはあたかも〝学校〟はどこも〝教育〟を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通っても同じだということと同じです。
釈尊が説いた「唯有一仏乗(ゆいういちぶつじょう)」といわれる法華経は、法華経以前に説かれた四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理と偉大な仏の利益、そして真実の仏身が説き現あらわされたものです。
その目的を見ても、今までの経教(きょうぎょう)では、三乗(さんじょう)すなわち声聞(しょうもん)を目的とする者、縁覚(えんがく)を目的とする者、菩薩になることを目指めざす者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別々に説いてきたわけですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり仮(かり)のものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自(みず)からが戒(いま)しめられ、一仏乗すなわちすべての人が仏の境界に至ることこそ真実の目的であると教示されました。