Q65 自分の宗派だけを正しいとするのは 「エゴ」では?


「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己主義(りこしゅぎ)という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では 捨閉閣拠(しゃへいかくほう)といって他経を捨てよ閉じよと教えまし、禅宗では教外別伝(きょうげべつでん)といって 釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心(いしんでんしん)で自宗のみに伝えられている、と主張します。
宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争に明け暮れています。これらのすべては 自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。
たしかに、周囲を無視し、道理や現証(げんしょう)を無視して、いたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、 真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で”悪しきエゴ”の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て”宗教は
すべてエゴだ”と速断して宗教全体を否定することは、けっして賢明な態度ではありません。
難解な宗教教義を判定する一つの基準 として、原因があって結果が生じるという、因果律(いんがりつ)に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神はだれによって作られたかという点は説いておりません。神道(しんとう)でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については合理的な説明がありません。仏教において初めて”三世(さんぜ)にわたる因果律”を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰依(きえ)する宗教が不完全なまま、民衆に信仰と尊崇(そんすう)を呼びかけることこそ"悪しきエゴ"というべきです。
仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら修行する能力を調(ととの)えていき、最後にもっとも功徳力のある法華経を出世(しゅっせ)の本懐(ほんがい=目的)として説きあらわしたのです。
釈尊自身も、
「私が今まで說いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既(すで)に説いたもの(已說=いせつ )、今説いたもの(今説=こんせつ)、将来説くであろうもの(当説=とうせつ)、それらのなかで この法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・法華経325頁取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを説かれています。
日蓮正宗では、正法によって衆生救済(しゅじょうきゅうさい)を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的(ふへんてき)な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪であると主張しているのです。