大聖人は、
「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるが如くなるべし。はかなしはななし。何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事・御書1040頁)
との教示をはじめとして、弟子・檀那に対し謗法を厳しく誡られている。末法においては、謗法を自ら犯さないことはもちろん、進んで謗法を退治することが肝要である。
天台の解く謗法
通じて謗法を論ずるならば、天台大師の『梵網菩薩戒経義疏』に謗三宝戒を挙げて、
「解すところ理にかなわず、言うところ実ならず、異解して説く者」(大正新修大蔵経40~574頁)
を謗三宝罪としている。
これらのなかの邪見は四つに大別され、
一には因果を撥(はら)う者、
二には因果を認めつつも仏法より外道が勝ると言う者、
三には仏法のなかで小乗は大乗に勝ると言う者、
四には雑邪見で、これに偏執・雑信・繋念(けねん)小乗・思議僻謬(びゃくびゅう)がある。
要するに、教法の道理と筋道に背いて、劣位勝見の異解を起こす者を謗三宝罪、いわゆる謗法としている。
天台よりさらに徹底したお立場で
大聖人の謗法に関するお示しは、『顕謗法抄』等に細示されている如く、天台よりさらに徹底した立場で説かれている。すなわち劣謂勝見について、
小乗に執して大乗に背く者(律国賊)
権経を持って実経を謗る者(念仏無間、禅天魔、真言亡国)
迹門に執して本門に不信の者(天台過時)等
究極においては五重の相対の鏡にかけて、謗法の有無を決せられるのである。華厳・法相・三論・真言・禅・念仏などの権経に執着する各宗が謗法であることはもちろん、法華経が諸権経に劣ると思う邪義に、心中から同ずる弟子・檀那はすべてこれに当たるのである。ただし、時機に従って爾前迹門を弘められた竜樹・天親・天台・伝教などの四依の論師が謗法でないことは無論である。これらの師は内鑑冷燃で、内は法華経の最勝最尊の所以を深く識つつも、ただ時機が合わないために外にこれを説かず、その時に宜しき教法を弘められたのである。
末法における謗法とは
末法においては、民衆の苦悩を救い万年の長夜を照らす大灯明として、大聖人が唯一無二の大法を弘通された。これすなわち、本因下種の妙法蓮華経である。したがって末法における謗法とは、過去弘経の残芥(ざんかい)である諸々の宗派や、その他の低級な宗教に執われ、また誤った人生観により、この大法を信じないこと、また謗(そし)り、嫉(ねた)み、恨(うら)むことである。仏教以外の諸々の三世の因果を否定する偏向の哲学に執し、権大乗、迹門、脱益本門の人法等に執着する者は、すべて本因下種の妙法蓮華経を信ぜず、その不信の当初に根本的な謗法の実体が存する。この不信より様々の怨嫉憎背(おんしつぞうはい)が現れてくる。今日の世間には、まだこのように正法に対する謗法の民衆が多いのである。
謗法の与同を免れる唯一の道とは
正法を信ずる僧俗が謗法の人々のなかにあって生活しつつ、その謗法の与同を免れる唯一の道は、この謗法者に対する本仏大聖人の限りない慈悲を拝し、親が子の悪業に心を痛めるように、その謗法を除かんとする心を堅持することである。謗法の罪の恐ろしさは広く経釈中に説かれている。
大聖人はまた、謗身、謗家、謗国の三をお示しであり、たとえ謗身は免れても謗家は免れず、謗家は免れても謗国の与同罪は免れ難いとされている。
日蓮正宗の僧俗は、まず当宗の仏法が唯一最高の成仏の大法であると信心を決定すべきである。そして身の謗法として憍慢(きょうまん)・懈怠(けたい)・計我(けいが)・浅識(せんしき)・著欲(じゃくよく)・不解(ふげ)・不信(ふしん)・顰蹙(ひんじゅく)・疑惑(ぎわく)・誹謗(ひぼう)・軽善(きょうぜん)・嫉善(しつぜん)・恨善(こんぜん)の十四誹謗を犯さぬよう慎み、次に家の謗法を除き、さらに国家社会乃至世界一同の正法信仰の大潮流を鼓吹せしめ、広宣流布実現の願業に邁進することが、謗国の失(とが)を免れる方法であろう。