五重相対について

内外相対

仏教が自らを内道と言うのに対し、それ以外のあらゆる教法を外道と言います。この外道と内道を相対して勝劣を決するのが内外相対です。
おしなべて、仏教以外の教法による人生観・世界観は、生命そのものを中道の上に如実に捉えられず、なんらかの独断的なものになっています。
その一例として、人間は生きている間だけの存在で生前の過去も死後の未来もないと言います。この見解を仏教では断見と言います。
また人間等の生物には個我という不変の存在があるとし、そこから死後の霊魂等を説明するのを常見といい、共に外道の辺見の一部をなしており、これが因果の法則を否定したり、部分的・偏向的な因果を説く短見謬相となって顕れています。
宇宙法界の事物は、必ず因果の法則によって成立します。しかるに唯物論では物質が本体で、一切は物質の進化によって顕れる現象と言うのです。だが、しからば物は何によって出来たかをいうと、ものは根本的存在であると言います。このように特定の本源的存在を置くことは、因果の理法に背くものであります。
キリスト教も、この点、むしろ唯物論と同様であります。一切は神が造ったと言う。その神は誰が造ったかといえば、神は根本的であって造られたものではないと言うのであります。
このように一切の本源を物と言い、神と言うも、共に因果の法則を無視する偏見に過ぎません。
これに対し、仏教は諸法の起減を内外両面より正しく捉えた因縁によって説明します。したがって、因果の道理を無視した絶対的存在を主張することは独断と言えます。
さらに人生の吉凶禍福は決して自然や偶然でなく、現在の果報は過去の因縁により、また未来の果報は現在の因縁によることを示すのであります。
要するに、儒教は現在の一世にのみ因果を立てるが、過去と未来にわたる永い生命の変転相からの因果は捉えられません。また印度の宗教哲学は、主なものを六師外道と言い、様々の因果論を立て、あるいは否定するけれども、すべて正因縁の生命の原理を見失った我見に基づく偏理偏論であるため、正しい生命の解脱を得ることができません。
仏教こそ宇宙法界の生命全体観に立脚し、過去・現在・未来の三世を明らめ正しい因縁観によって人生の指針を示す教えなのです。このように、外道と内道の優劣邪正を決するのが、内外相対です。

大小相対

仏教には小乗と大乗の二つがあります。
要するに、小乗とは声聞、縁覚等、自己救済のみを目的とする小根性の機を運んで灰身滅智(けしんめっち)の小果に至らしむる法門で、これを宣(の)べたものを小乗経と言います。大乗とは自己と他人を共に救済せんとする菩薩大根性の機を運び、無上正覚の大果に至らしめる法門であり、これを宣説したのが大乗経です。
所観の真理、能観の智慧、あるいは修行や位、また六道十界に関する因果等の生命観において、大乗は高く広く幽玄であり、小乗はこれに比して低く狭く浅簿を免れません。したがって、末代の民衆を導くべき法理にかけています。この浅深勝劣の決定が大小相対です。
なお、天台家では、小乗の律蔵が経蔵や論蔵と並んで各別に存在する所が大乗の律蔵と異なるため、小乗を持ってその特徴的名称として三蔵と呼んでいます。次に出る化法の四教中の三蔵経も、この意味で小乗経を指しています。
小乗経蔵は、雑阿含(ぞうあごん)五十巻、中阿含六十一巻、長阿含二十二巻、増一阿含五十一巻の四阿含経等で、律蔵は、曇無徳部(どんむとくぶ)の四分律六十巻、弥沙塞部(みやそくぶ)の五分律三十巻、犢子部(とくしぶ)の摩訶僧祇律四十巻、薩婆多部の十誦律六十一巻、説一切有部毘奈耶五十巻等である。また論蔵は、ほとんどが説一切有部に属し、舎利弗の『集異門足論』二十巻、大目乾連(もっけんれん)の『法蘊(ほううん)足論』十二巻、『施設足論』、提婆設摩の『識身足論』十六巻、世友(せう)の『品類足論』十八巻、『界身足論』三巻を六足論と言い、これを組織的に説明したのが迦多衍尼子(かたえんにし)の『発智論』二十巻で身論と言い、さらに迦膩色迦王(かにしかおう)のもとで五百の聖集によって発智六足等を釈したのが『大毘婆沙論』二百巻である。また後世に至って、世親の『倶舎論』三十巻が小乗論として存する。
大乗は、では阿含経を除く華厳部、方等部、般若部、法華部、涅槃部等の諸経で、は、梵網経、菩薩地持経等の大乗律、は竜樹の『大智度論』百巻、『中観論』四巻、『十二門論』一巻、提婆の『百論』二巻、弥勒の『瑜伽(ゆが)師地論』百巻、無著(むじゃく)の『摂大乗論』三巻、世親の『十地経論』十二巻等である。

権実相対

権(ごん)とは、しばらく用いてのちに廃すべき仮の法または教説で、実とは、仏の究極の悟りを顕す真実の法や教説を言います。
権実判は、天台大師の教学の五時八教を用いられています。八教とは、一大聖教を説く教えの中の道理を蔵・通・別・円の四に分けて化法の四教とし、また教を説く型式方法を頓・漸・秘密・不定の四に分けて化儀の四教とします。一切の仏教は、この八教の組合せによって説かれたのであります。

天台の化法の四教について権実を説明すると、世の中の法は広いが束ねれば事法(現象)と理法(実在)を出でません。この理と事に、それぞれ三界(欲界・色界・無色界)の内と外、つまり界内・界外の差があって四教をなすのです。事法とは、諸法が差別して隔てあるのを示す法門であります。故に、凡夫と仏は各別であり、煩悩を断じて菩提を得るというように、法の体別を示すのを事教と言います。理法とは、諸法が相即融通するのを示す法門であります。したがって、衆生も悟れば仏と成り、煩悩と菩提も水と氷のように、相は異なるが体は一法であると諸法の体の相即を明かすのが理教であります。
三蔵経は、三界六道の迷中における現実の事相を滅して空理を見ると説くから、その理を事に属して界内の事教と言います。
通教は、三界六道の依報・正報は幻の如く、その体即空と説き、事に理を摂する故に界内の理教となります。
別教は、十界についてその事相の差別する相を示し、空より仮、あるいは仮より空、さらには中道に入るを説きます。かく真理の高低や位の高下がすべて次第し差別し隔歴(かくりゃく)を存するので、界外の事教と言います。
円教は、十界の円融相即する相を示し、空と仮と中が一に即して三、三に即して一と説きます。また、仏土についても前の三を総じて、凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土不二を知る。これは界外の理教であります。
このうち蔵教・通教・別教は権教、円教が真実の教です。
次に化儀の四教を述べると、仏が衆生を化導する方法(儀式)に、頓・漸・秘密・下定の四通りがあります。
頓教とは、菩薩上機に対し、仏の悟りを直ちに説いて方便誘引を借りないが、小機は聾(ろう)の 如く唖(あ)の如くでありました。華厳経がこれです。
漸教とは、下機に対し、浅きより深きへ漸漸(ぜんぜん)に導くを言い、阿含・方等・般若がこれに当たります。
秘密教は、つぶさには秘密不定教と言い、衆生の根性が不同であるため、衆生各々その存在を互いに知らせることなく、頓や漸の化益(けやく)を施すを言います。
不定教とは、顕露不定教で、同一会座における衆生の根性はまちまちのため、仏の説法を開いて、ある者は頓益、ある者は漸益等を得、会座の衆生が互いにその存在を知りつつも、得るところの法について互いに知らず、大小定まらないことを言う。右の秘密教と不定教は法華以前の華厳・阿含・方等・般若の四時のなかに常に用いられています。
法華は仏意の開顕であるから、右化儀の四教のいずれでもない。十界のすべてを最高の仏知見に合致せしめる平等大慧の説法である。このため、非頓・非漸・非秘密・非不定と言うのである。
次に、五時あるいは五部の上から権実を分けると、別教・円教の二教を説く華厳部、三蔵小乗のみの阿含部、四教すべてを含む方等部、通教・別教を帯して円教を説く般若部は、ことごとく方便を帯するから束ねて権教となり、ただ法華経のみ純円で方便を存しない故に実教となる。これが天台の正意で、また大聖人の依用される権実判である。
上の純円について、仏の現実の化導においては、二乗作仏・久遠実成の二箇の大事として法華経に示されている。この二箇の大事は、爾前四十余年の経々に全く顕されていない。のみならず、極悪の提婆、愚癡の竜女、つまり悪人・女人の成仏も、法華経に初めて開顕されている。ここに純円の妙旨が初めて法華経に余りなく発揮される所以がある。
その妙旨とは、仏の知照したまう仏界即九界、九界即仏界の円融の悟りのなかへ衆生が誘引せられ、眼を見開いたことを意味している。ここに十界が互具し、さらに本門において無始の九界と仏界が十界互具して、百界千如・一念三千の悟りを大衆が悟達し、自己の生命の 開覚を遂げて釈尊の化導が完了した。
したがって、法華経は仏の金口もって自ら、「正直に方便を捨てて但無上道を説く」(方便品・法華経124頁)と言われ、法華経が真実本懐の経典であることを説き、多宝仏も来たって真実を証明している。ここに爾前大小の諸経は、衆生の即身成仏の実義が隠されているので方便・権教であり、法華のみ真実の仏知見が開かれた教法である、と決するのが権実相対である。

本迹相対

法華経に、前半の迹門十四品と後半の本門十四品の相違がある。これは天台で立てる本迹のけじめで、法華経一部の旨趣から見た本迹である。爾前迹門では始成正覚の釈尊であって、久遠の本仏が説かれていない。本門では釈尊が五百塵点劫の昔よりの仏であることが説かれたことによって、一会の衆生も、久遠の仏の弟子であることを悟ったのである。
これを化導の対象である衆生の面から述べると、迹門は諸法実相を説き、三乗を開して一仏乗を顕し、二乗作仏を示すが、衆生はいまだ真実の成仏に至っていない。そのわけは、真実の一念三千の法が顕れないためである。なぜならば、迹門で説く円融の妙旨・十界互具は、印度に生まれ、十九出家・三十成道以来の始成の仏が説いた法であるら、現在のみの真理、真実である。常住永遠の法でない以上、それは確固たる真実性、普遍性にも欠けている。この法におけるかぎり、成仏は名のみであって、実際にはありえないのである。すなわち始成正覚の仏の法にあっては、仏も衆生も共に始成の見解を立てる辺は見惑を存し、これを愛著する辺では思惑を存している。衆生をして真の開覚に導けないのは塵沙惑が充満し、仏と衆生が共に永遠の生命に不明であるのは無明未断である。よって爾前迹門の仏も衆生も、いまだ三惑未断の迷界の凡夫である。このように迹門では諸法の実相を説き、一々の法に具わる円融の妙旨が示されたとは言っても、いまだ本無今有と有名無実の二失があるのである。
本門に至って、十界互具は久遠以来の常住の法となり、これを聞いた一会の大衆は、久遠の昔に下された仏の種子に想到して、自己を妙法蓮華経の生命と開覚したのである。
故に妙楽大師は、
「長寿を聞いてく宗旨を了すべし」(文句記・法華文句会本下185頁)
と述べている。このように久遠の教と理と行と果を説き、仏の真実の悟りを衆生に自覚せしめるので本門が勝れており、始成正覚の迹門の仏が説く円融の教法には、まだ仏の真意が隠されていることを決判するのが本迹相対である。

種脫相对

種脱相対とは、大聖人の末法弘通の教法を顕す最終の決判で、『開目抄』の、
「文の底に秘してしづめたまへり」(御書526頁)
の文と、『観心本尊抄』の、
「彼は脱、此は種」(同656頁)
の文、その他、各御書の種脱の文義を依拠とする。
釈尊の化導は久遠を下種とし、中間の出現に節々成道を唱え、また今番の四十余年の経々ならびに法華経迹門を熟益とし、今日の法華経本門に来たって一切の結縁の衆生に脱益を得せしめられた。大聖人はこれを、
「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登ら しむ (中略) 在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」(同頁)
と仰せられている。法華経本門の釈尊は既に始成正覚の方便を帯びず、また本無今有、有名無実の方便を帯さないから純円ではあるが、脱益の本門である。
大聖人の本門は久遠元初の仏を明かされる故に、三十二相の色相の方便を帯せず、また妙 法の一法に余の方便や垂迹の四教八教等の熟脱の法を混じえぬところの、下種独一本門の純円である。純円の名は同じであるが、その義は異なっており、まさしく大聖人の弘められる末法の本門こそ、下種の妙法蓮華経の五字である。
このように見てくると、釈尊の化導は文上の法華経を中心として、正像二千年で終了している。その後の末法のため、釈尊は地涌の菩薩上行等の聖人を呼び出され、法華経の久遠の真髄を四句の要法にまとめてこれに付嘱し、弘通を命じられたのである。地涌の上首たる上行菩薩は、末法に日蓮大聖人と現れて、結要の妙法蓮華経の五字を弘められた。そしてこの 妙法に具わる境・智・行・位について、釈尊の仏法との違いを顕されるのが大聖人の法門で、この重が種脱の深義である。
すなわち『報恩抄』の、
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(同1036頁)
と仰せられるのは、生きた本仏の人格を言われるのであり、絵像木像の仏でない。これこそ寿量文底の妙法を弘めたまう仏とも言われ、凡夫僧とも言われる日蓮大聖人自らを示されているのである。
したがって、末法の下種法華経の教主は釈尊でなく大聖人であり、下種の法は文上脱益の一品二半でなく、文底に秘沈された内証の寿量品たる下種の一品二半で、その所詮の法は本因名字の位に住する凡夫即極の大法、境と智が一如する妙法蓮華経である。このけじめを立て分けるのが種脱相対の法門である。
以上、末法の世界中の人々に、時代にふさわしい最高の宗教の実体を有する大聖人の仏法宗旨を信ぜしめるための教判として、この五重相対等が存するのである。

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