「日蓮正宗の教えとは何か」カテゴリーアーカイブ

Q69なぜ、宗教に正教と邪教があるの?


なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問うとき、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いをかなえてほしいといい、またある人は先祖の冥福(めいふく)を祈りたいなどと様々な答えがかえってくると思います。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば”とげ抜き地蔵"なるものまで、多種多様の宗教があります。
また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書、マリア像、キリスト像を拝むものなど様々ですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音(かんのん)、弥勒(みろく)などの菩薩(ぼさつ)、あるいは大黒天(だいこくてん)、弁財(べんざい)天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐にわかれています。
もし宗教が単に気休めや精神修養(せいしんしゅうよう)のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。
またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみてください。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接の影響を受けませんが、身近なものや信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであれば、なおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などはだれでも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗り物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶもの です。その選択の基準として、自分の経験や道理の適否、実験の結果、保証の有無、他者の評価などを考慮した上で、できるかぎり、高い価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義も様々ですが、日蓮大聖人は、
「小乗経(しょうじょうきょう)・大乗経(だいじょうきょう)並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・御書887頁)
と仰せ(おお)のように、三毒強盛の末法(まっぽう)の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、