一般に信仰とは、お年寄りが精神修養や先祖を敬いお寺に参詣し、親しい仲間となごやかな交流の場を持(たも)つために、時には団体旅行をする程度にしか考えていない方が多いようです。
あるいはまた困った時に、神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、願をかけ、守札などを大事にすることが、信仰だと思っている人もいるようです。
しかし、正しい宗教を信仰する目的は、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の四苦(しく)や、経済的な苦しみや対人関係などを含め、いかなる苦悩にも打ち勝つ活力を与え、尊い人生を全(まっとう)するための生き方を教えるところにあります。
したがって、正しい宗教の持つ働きは、単なる精神修養や気安めではありません。
正しい信仰は、人間の全生命の問題とその生き方、人の幸・不幸にかかわる重大な意義と働き、そして計り知れない多大な価値を担っており、人生にとって必要不可欠と申せましょう。
では、正しい信仰には、私たちにとって、どのような功徳がそなわるのでしょうか、それは、
(一)世界中の一切の人々を、真に幸せな即身成仏の境界(きょうがい)に導ことができる。
(二)強盛(ごじょう)な信仰を通して、御本尊に託(たく)する願いや希望を成就(じょうじゅ)し、また、悩みや苦しみに打ち勝つ金剛心(こんごうしん)を育てることができる。
(三)御本尊にそなわる題目の功徳によって、父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、また、未来の子孫をも救済する福徳(ふくとく)を得うることができる。
などがあり、そのほかにも正しい信仰の功徳は凡夫の我々では、到底数え切れないほど多く、とてつもなく大きなものであると説かれています。
日蓮大聖人は、妙法を信受する功徳について、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、是を信受すべし」(聖愚問答抄・御書406頁)
と教えられています。
数ある宗教の中にあって、一時の気安めや現実からの逃避ではなく、真に一切の人間の苦悩を喜びに変え、大難を乗り越えて、煩悩(ぼんのう)を菩提(ぼだい)へ、生死(しょうじ)を涅槃(ねはん)へ、裟婆(しゃば)の忍土(にんど)を寂光(じゃっこう)の楽土(らくど)へと転換させうる真の仏法こそ、日蓮大聖人の教えなのです。