邪宗という言葉は、日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているわけでありません。
ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこしま)な宗教が元凶(げんきょう)となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸の種だからです。
昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別に殺戮(さつりく)しました。いま私たちが、核兵器の行使(こうし)が悪魔の所業(しょぎょう)であると叫(さ)けび、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でありましょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発(ゆうはつ)されることを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾(しだん)することは言いすぎでしょうか。それとも失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。
涅槃経(ねはんぎょう)に、
「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」
と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道(さんなくどう)に堕(おち)て永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。
一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤(かくせいざい)や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂くるわせていくのです。
釈尊は法華経に、
「正直に方便(ほうべん)を捨てて但(ただ)無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結一二四)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経々(きょうぎょう)を捨てることを説き、これ以後に説示(せつじ)する法華経こそ最高唯一(ゆいいつ)の無上道であると言われています。
また方便の経々に執着(しゅうちゃく)していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)は自から、
「世尊我が心を知ろしめて、邪(じゃ)を抜ぬき涅槃(ねはん)を説きたまいしかば、我悉(ことごと)く邪見(じゃけん)を除(のぞ)いて空法(くうほう)に於(おい)て證(しょう)を得たり」(譬喩品第三・開結一三二)
と心中の思いを述べていますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。
さらに、日蓮大聖人は末法の教主として、
「正直に権教(ごんぎょう)の邪法(じゃほう)邪師(じゃし)の邪義(じゃぎ)を捨てゝ、正直に正法(しょうぼう)正師(しょうし)の正義(しょうぎ)を信ずる」(当体義抄・御書701頁)
ことが、もっとも大切であると教えています。
これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。
正しい仏法に目醒めざめた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いかり)であり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告(けいこく)の表あらわれでもあるのです。