Q21 信仰は、必要だ!と思った時だけすればよい?


〝信仰を必要とする時〟とは、どのような時を指すのでしょうか。苦境に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的に神社仏閣に参詣する正月や盆、彼岸を指すのでしょうか。あるいは冠婚葬祭の時でしょうか。または人生のなかで老境に至った時という意味でしょうか。

こうしてみると、〝信仰を必要とする時〟といっても、受けとり方によって意味がまったく異りますから、一部分のみをとらえて、そのよし悪を論ずることはできませんが、いま質問の内容について、説明するために、〝信仰をしなくともよい時〟があるかどうかを考えてみましょう。

そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。
信仰の意義としておおかた次の三点が挙げられます。

第一に正しい宗教とは、人間の生命を含む時間と空間を超えた宇宙法界の真理を悟(さと)った本仏が、私たち衆生に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。
それはあたかも人生という草木を育てている大地のようなものであり、また、人間という電車を幸せに向って快適に走らせるためのレールのようなものなのです。私たちの人生は、誰にも平等に時々刻々(じじこくこく)と過ぎ去って行きます。
日々、生きた草木であり、動いている電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。また走っている電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。
宗教とは人間の根本となる教えということであり、それが無いのは、進むべき方向を示す針の無いさまよえる人生というべきなのです。

第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間として最も気高く尊い境界(きょうがい)を目標として修行することです。そして成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧(ちえ)を涌現(ゆげん)させ、何ものにも崩れることのない安穏(あんのん)で自在の境地を築くことであり、この高み至るためには、たゆまぬ努力と精進(しょうじん)が必要です。
どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を極(きわ)めるためには、正しい指導とたゆまぬ修行鍛錬(たんれん)がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じで、到底目的をなしとげることはできません。

第三に正しい宗教とは、人生の苦しみを根本的に解決するためのものであり、これを実践(じっせん=信仰)すれば自と苦悩を乗り越える勇気と智慧など、生命力が備そなわるのです。それだけでなく正法を信ずることによって、日常生活が仏天(ぶってん)の加護(かご)を受けることも、はっきりと表れてる事実なのです。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを抱かかえながら生きているのではないでしょうか。

また明日どころか一時間先に何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を閉とじるかもわからないのです。〝必要な時が来れば信仰する〟などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄にしているといわざるをえません。
したがって、あなたにとって〝信仰が必要な時〟とは、今を置おいては他にないのです。