日本国憲法の第二十条に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」 と、明確に信教の自由が保障されています。
この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制の歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。
朝廷による宗教への保護と規制、また、江戸幕府の寺請制度(てらうけせいど)と転宗(てんしゅう)の禁制、近代国家主義下の神道の強制などの歴史を経て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧、迫害の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。
しかし、ここで私たちが注意すべき点は、どんな信仰を持とうとも、法律の上では自由が保障される時代を迎えたとはいえ、信教の自由の意味を単に、宗教の正邪、善悪を無視して、何をどう信じてもいいと、気安くとらえてはならないということです。
信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利を実際に使うには、それを正しく役立てていく、主権者としての責任もあるのです。
法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断を下し、制限することはできませんが、実際に宗教を選ぶ時には、一人ひとりが正邪を厳きびしく判定して、唯一の正法を選ぶことが肝心です。
信教に限らず、自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、自己の責任において、その恩恵を実際に用いていく意志を持たなくてはなりません。
せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸(ほういつ=わがまま)の意味に曲解するのは、あまりにも無責任すぎます。