先祖を敬い、崇めることは、仏法の教義に照らして、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。
しかし先祖を神として祭(まつ)ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝(らいはい)の対象とすることは誤りです。なぜならば先祖とはいっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり悩なやんだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁(あくえん)によれば苦を感じ、善縁(ぜんえん)すなわち正法によれば安楽(あんらく)の果報(かほう)を受ける凡夫(ぼんぷ)であることに変わりがないからなのです。
言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得えられるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。
世間では先祖や故人(こじん)を「仏(ほとけ)」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法ではありません。 仏とは仏陀(ぶっだ)とも如来(にょらい)ともいい、この世の一切の真実の相(すがた)と真理を一分のくもりもなく悟(さと)り極(きわ)めた覚者(かくしゃ)という意味です。
仏教の経典には阿弥陀仏(あみだぶつ)や薬師仏(やくしぶつ)、大日如来(だいにちにょらい)などたくさんの仏が説かれております。
これらの仏について、法華経には、
「此の大乗経典(だいじょうきょうでん)は諸仏の宝蔵(ほうぞう)なり。十方三世の諸仏の眼目(げんもく)なり。三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種なり」(観普賢経・開結六二四)
と説かれ、
日蓮大聖人も、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以って仏に成り給ひしなり」(法華初心成仏抄・御書1321頁)
とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法(ほんぽう)を種として仏となることができたのです。
この原理は私たちや先祖が何によって真に救われるかをはっきり示しています。
すなわち本当に先祖を敬い、先祖の恩に報(むく)いる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法に従って正しく回向(えこう)供養すべきでありましょう。
また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄(はんえい)と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負って医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲にされた方もいたことと思います。このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願(しゅくがん)ここに成れリ」と大いに喜ぶはずです。
先祖を敬うという尊い真心(まごころ)を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌(いはい)を拝むことではなく、三世諸仏の本種である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。
大聖人は、
「父母(ふも)に御孝養(こうよう)の意(こころ)あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊(しょうりょう)も忽(たちまち)に六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土(りょうぜんじょうど)へ御参(おんまい)り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事・御書1506頁)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。