興師会は、日蓮大聖人の下種仏法を受け継がれ、後世に正しく法灯を伝えられた第二祖日興上人に御報恩申し上げる法要です。総本山をはじめ各末寺において、日 興上人の祥月命日に当たる二月七日に奉修されます。
日興上人の御事蹟
日興上人は、寛元四(1246)年三月八日、甲斐国巨摩(こま)郡大井荘鰍沢(かじかざわ)山梨県南巨摩郡富士川町に誕生されました。 総本山第五十二世日露(にちでん)上人の『日興上人略伝』に、
「師生れながらにして奇相あり特に才智凡ならず」(富要5-362頁)
と記されているように、幼少のころから聡明さが他に抜きんでておられたと拝されます。
幼くして父親を失ったため、駿河国富士上方河合(静岡県富士宮市長貫)に住む外祖父の河合入道(由比氏)に養われ、付近の蒲原荘(富士市中之郷付近)の四十九院に上って仏法を学び、兼ねて良覚美作(みまさか)阿闍梨から漢学を、冷泉中将隆茂について歌道・書道を修められました。
特に能筆の才により、後年、日蓮大聖のお手紙を代筆されたり、重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその御筆跡を拝することができます。
正嘉二(1258)年、日蓮大聖人は『立正安国論」御述作に当たり、賀島荘岩本(静岡県富士市岩本)の実相寺で一切経を閲覧されていました。ちょうど同寺に居合わせた十三歳の日興上人は、初めて大聖人にお会いし、その尊容と御高徳に触 れ、直ちに入門を願い出て、それを許され、伯耆(ほうき)房との交名(きょうみょう)を賜りました。
以後、身に影の添うが如く、常に大聖人のお側でお給仕申し上げるかたわら、甲斐・駿河・伊豆・遠江等の各地において折伏弘通の法将として活躍されました。
特に、弘長元(1261)年五月の大聖人の伊豆御配流、文永八(1271)年十 月の佐渡御配流には、大聖人に供奉し、艱苦(かんく)を共にされました。このような常随(じょうずい)給仕を通じて、日興上人はおのずと大聖人を末法の御本仏と拝信され、その仏法を体得されたのです。
日興上人の折伏弘教により、建治元(1275)年ごろ、熱原(静岡県富士市熱原周辺)滝泉寺の僧侶や、多くの農民が大聖人の仏法に帰依しました。これを恨ん だ滝泉寺院主代の行智等により、熱原法難が惹起(じゃっき)しました。
しかし、大聖人の御教導と日興上人の指導により、熱原の農民信徒は拷問と脅迫 にも屈することなく、泰然と妙法の信仰を貫いたのです。
弘安五(1282)年九月、日興上人は、大聖人から『日蓮一期弘法付嘱書』を もって一切の仏法を付嘱され、十月十三日には「身延山付嘱書』をもって身延山の別当(一寺の統括者)と定められました。
大聖人御入滅後、ほとんどの弟子は権力を恐れ、師敵対の大謗法を犯しましたが、日興上人は身延山に在って、いささかも大聖人の仏法を曲げることなく、正義を守り抜かれました。
しかし後年、身延に登った民部日向の教唆(きょうさ)により身延の地頭・波木井実長(はぎいさねなが)が四箇の謗法を犯し、日興上人の再三の訓戒を聞き入れなかったことから、日興上人は 断腸の思いで身延を去ることを決意されました。
日興上人は、このときの御心情を、
「身延沢を罷り出で候事面日なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還(かえ)し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候わんこそ詮(せん)にて候え(中略) 日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本音忘るること無くて候」(原殿御返事・聖典560頁)
【通釈】身延の沢を離れることは、面目なく、また本意でもなく、言葉に尽くすことはできない。しかし、よくよく考えてみると、いずれの場所においても大聖人の仏法を継承 して世の中に立てていくことが最も重要である。私一人だけが大聖人の正義を受け継ぎ、本懐を果たす立場にあるので、けっして大聖人の御本意を忘れることはない。
と記されています。
すなわち、日興上人は、御本仏日蓮大聖人の下種仏法を受け継ぐお立場から、そ の仏法を永遠に護持し、末法の衆生を救うために、謗法の山となった身延を離山されたのです。
正応二(1289)年春、日興上人は本門戒壇の大御本尊をはじめ、一切の重宝 を捧持して身延を離山し、河合を経て、富士上野の地頭・南条時光殿の招きにより 南条家に移られました。
そして大聖人の
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書・御書1675頁)
との御遺命に 従い、四神相応の勝地・大石ヶ原を本門戒壇建立の地と定め、正応三年十月十二日、大石寺を創建されたのです。
後年、五老憎(日興上人以外の大聖人の高弟五人」の一人であった日朗は,日興 上人のもとを訪ねて前非を悔い、また日頂も富士に帰伏しています。これらの史実は、大聖人の仏法が富士大石寺にのみ伝 わっていることを示すものと言えましょう。
大石寺を創建された日興上人は、日目 上人を第三祖と定め、血脈法水を内付されました。
そして、永仁六(1298)年二月十五日、重須の地(静岡県富士宮市北山) に談所を開創し、門下の育成に当たられました。
元弘三(正慶二・1333)年二月七日、本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、八十八歳を一期とされ、薪が尽きて火が消えるように、安祥として御入減されました。
日興上人は僧宝の随一
本宗では、日興上人を末法下種の三宝のうち、僧宝の随一と拝します。大聖人が 『四恩抄』に、
「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(御書268頁)
と御教示されているように、仏宝である日蓮大聖人と、法宝である本門戒壇の大御本尊を尊ぶことは、僧宝の教えによって知ることができるのです。言い換えると、大御本尊を信仰し、成仏の境界を開くことができるのは、日興上人が大聖人の仏法 を厳護し、いささかも違えることなく後世に伝えられたからです。この日興上人の広大な御恩徳に御報恩申し上げるために、興師会を奉修するのです。
総本山では、御法主上人の大導師のもと、二月六日に興師会の御逮夜法要、七日に御正当会が、客殿において率優されます。また毎月七日には、御法主上人大導師のもと、御影堂に全山の僧侶が出仕して御報恩の御講が修されています。
芹をお供えする理由
日興上人は常に粗衣粗食で、特に若芹を好ま れていたと伝えられています。
日興上人のお手紙にも、
「せり・御す(酒)の御はつ(初穂)を仏にまいらせて候」(曽弥殿御返事・歴全1-148頁)
【通釈】御供養された初物の芹とお酒を御本尊・大聖人の御宝前にお供えいたしました。
とのお言葉が拝されます。
このようなことから古来、総本山では興師会御逮夜法要の前に、御助番の僧侶等が青々とした若芹を摘み、興師会の御宝前にお供えしています。現在まで続く芹摘 みは、日興上人に対するお弟子方のお給仕の姿を彷彿とさせる行事です。
大聖人滅後七百数十年、本宗に連綿として法灯が厳護されてきた淵源は、日興上人の死身弘法、令法久住のお振る舞いにあります。
私達は、興師会に参詣して日興上人の御鴻恩に御報恩申し上げるとともに、広宣流布を目指し、僧俗一致して前進することをお誓いしましょう。