9.本因下種

 本因とは本果に対し、下種とは熟脱に対する語である。そして本因の故に下種となるのである。

本因本果

涌出・寿量の二品以外はすべて迹因迹果の方便
 まず初めに本因本果について言えば、経文でこれが説かれているのは、涌出・寿量の二品のみで、他の大小乗一切の経典にも仏道因果が説かれているが、すべて迹因迹果がである。迹の因果は多種であって、あるいは能施太子として布施行を満じ、薩埵(さった)王子として身をトラに与え、戸毘(しび)王として鳩と鷹を救い、あるいは三大阿僧祇劫、あるいは動踰塵劫(どうゆじんこう)等の長い因位の修行、また十方台上の盧舎那(るしゃな)報身仏、小乗三蔵の応身仏、あるいは方等・般若の諸仏、四教の色身を現ずる等の果位の示現も数は無量である。
 しかるに本門が説かれて、これら爾前迹門の仏果と、その因位の修行はすべて方便として打ち破られた。本門は、
 「一の円因を修して一の円果を感ず」(釈宣・法華玄義会籤本)
と説かれるように、究竟の因果は一に帰するのである。
文上の本因本果は共に熟脱の仏法
 さて、寿量品の文上については、本果の開顕が主であり、印度出現の釈尊が基本である。
すなわち、
 「我成仏以来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫(我成仏してより已来、復此れに過ぎたること、百千万億那由他阿僧祇劫なり)」(寿量品・法華経)
の我とは、金色三十二相の釈尊にほかならない。これに対し、本因妙は、
 「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数(我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数より倍せり)」(同)
の文である。天台はこの文を、ほぼ初住に登る時、常寿を得たものとしている。故に、寿量品の本因本果共に、文上は惑を断じて理を悟る熟脱の仏法である。
本因の法体を認めない他門の論旨は、すべて曖昧
 ところで、仏法は初めより終わりまで因果の二法によって道を説くので、常住とか無始無終と言っても、因果の筋道を立てるのでなければ仏法から逸脱する。
 久遠の本果の仏も、因がなければ果を得ることができない。そこで、天台は初住本因を説くが、初住の高貴な菩薩位以前に因がなければ初住の果に登ることができない。後々の位に登るのは前々の修行によるからである。本果のみに注目して本因の法体を認めない他門の論旨は、すべて曖昧(あいまい)である。
 この初住以前の因が実の本因であるとは、寿量品の文にも明らかでなく、天台も明確には示していない。
 これには種々の理由があるが、要は、本因初住の奥底に沈める真実の本因仏法が本門の直体であり、これを所有される仏でなければ顕示することができないのである。釈尊は迹中の化導であるから本門の直体(じきたい)を示される仏ではなく、天台もまた時なく機なく、さらに本門の付嘱がないためその役目に当たらない。
本因初住の文底の法こそ、前代未聞の大聖人の仏法
 まさしく大聖人が、この法体を開示された久遠の本仏である。大聖人が久遠本因の仏法を開示せられたから、今日、我々はその教えを仰ぐことができるのであり、『本因妙抄』『百六箇抄』等の相伝書にこの旨が明らかである。また、多くの御書にこの意義が密示あるいは顕示されている。
 まことに本因初住の文底の法こそ、前代未聞の大聖人の仏法であり、それは本因妙名字における身と位を明かすことで、すなわち、凡夫即極の法体である。
因果倶時の妙法蓮華経においては、妙法を信解することが成仏
 この本因名とは因であるから、果仏としての本果の相(姿)を現すものではない。ならば果なくして成仏はあるのかと言うと、因果倶時の妙法蓮華経においては、妙法を信解することが成仏なのである。金色三十二相の仏相でなければ成仏できないと思うのは、本果仏法に執われた迷見である。本因仏法は、因果倶時の当体を仏と開くことであり、大聖人は、
 「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てて、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す」(当体義抄・御書701頁)
と示されている。
仏の刹那開悟に無始無終の永遠の生命を包括
 本因の宗は久遠元初・因果一念の証得である。元初とは仏法の本源の一時点であるが、元来、刹那刹那の連続が永遠となるのであり、現在の刹那のほかに、永遠の実在はありえない。久遠元初の一刹那において開覚し、究竟した仏の生命が、常に衆生を救うところの永遠の生命なのである。
 つまり、因果一念の妙法蓮華経を開覚する仏の生命は、その刹那刹那の連続が永遠であるから、その瞬時の悟りに永遠を具有する。久遠元初とは、妙法を実証する仏の刹那開悟に無始無終の永遠の生命を包括するのであり、ここに中心を置くことにより、仏法の本源が明白となる。是に対し法華経文上に説く五百塵点(じんてん)過去常住の生命相は、久遠元初の妙法蓮華経を方便の化導の上に説かれた影であり、刹那成道・直達正観の実態に対すれば抽象的仮体に過ぎない。これが、釈尊の寿量品における永遠性の表現である。

下種と熟脱

 次に下種と熟脱については、元来、種・熟・脱の三益は、天台が『文句』一に四節の三益を説き、妙楽がこれを釈したものである。その趣意は寿量品の解釈上、釈尊の過去の常住とともに未来常住を想定し、おおむね釈尊の三世益物(やくもつ)が中心となっている。したがって、三益はただ衆生の利益を得る時機の不動を四種にわたって述べるものである。けだし、この釈相は釈尊の化導を基本とする天台にあっては同然である。
 しかるに、大聖人の種・熟・脱の三益はこれと同じではない。ここにも天台・伝教未弘の法相が存在している。
 大聖人の種脱の法門は、まず第一に本因妙の三益と、第二に本果妙の三益を分けられている。右のうち第二の本果妙の三益が天台で説く三益であり、『観心本尊抄』に、
 「久種(くしゅ)を以って下種と為し、大通・前四味・迹門を塾と為して、本門に至って等妙に登らしむ』(同656頁)
と、在世の本門の意義において、脱益に括って示されるのがこれである。
 また、右の下種益には聞法と発心の二類があり、突き詰めれみれば、根本の聞法下種は、本果のところではなく、本因のところに帰着するのである。
 第一の本因妙の三益について、大聖人の判釈は、初住本因に及ばず、久遠元初本因妙のところに志(こころざ)されている。下種の種とは、宇宙の玄理を証得された元初の仏の妙法を言う。この種子を仏が衆生の心田に下すのが下種であり、衆生がこれを心内に受け取ると下種益を成ずる。そして、この妙法の種を受持し、修行し、その身そのままに妙法の仏と究竟するのが下種即脱の即身成仏である。
 この信心修行を途中で退転して悪道に流転する者が、第二の本果仏法に至って五時八教等の化導で智解を進め、熟益を成ずるのである。この本果仏法との因縁を発心下種と言う。さらに釈尊が印度に出現されて、久遠より下種結縁の衆生が無上仏道を証得したところが、脱益である。
 ここに、久遠元初本因妙の聞法下種を起因とし、本果以降の発心下種、さらに今日、印度出現の釈尊の五時八経に至る熟脱の化導によって成仏し、余残の機も滅後正像二千年までに得脱し終えたのである。
 したがって、末法は久遠元初と同じく種に還るのであり、その再現である。下種の体は本因名字の妙法蓮華経で、その所有者は凡夫のままの名字即仏の大聖人である。一般日蓮宗では、三世益物の常住の釈尊が番々の出世化道により種子を下し、その仏と結縁する衆生に三益があると言うが、それは前述の第一と第二の三益を混乱している。
 大聖人は、種・熟・脱をただ単に衆生の機の相違のみとされず、法と仏の違いとされている。
 末法の衆生は下種の機であるから、熟益・脱益の仏法では利益は成じない。そのため、下種の仏の大聖人が出現せられて、下種人法体一の妙法蓮華経を衆生の心田に下されるのである。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。