8.一念三千

一念三千の語は、天台大師の創唱である。法華経の妙解によって妙行を立つを言い。天台の実践門の止観一部における究竟の指南である。この一念三千の法門は『玄義』にも『文句』にも、また『止観』の第四巻まで明かされず、第五巻に至って初めて説かれている。

天台は、釈尊の法華経を受け、迹門中心の化導であるから、その一念三千は迹門を面(おもて)、本門を裏とする関係上、方便品の諸法実相に準拠し、凡夫の己心に具する中道の理を観ずるところに一念三千を示すのである。三千とは、一心に十界を具し、十界に十界を具して百界、それに十如を具して千如、さらに三世間を具して三千世間となる。あるいは百界に三世間を具して三百世間、さらに十如を具して三千如是との別があるが、開合の相異に過ぎない。この天台の観法では、次々と不断に起こる日常の妄心一念を対境として、これが三千三諦であるとの観を凝らすのである。これを迹門熟益の化導と言い、諸法実相に約す一念三千であり、心があれば必ず三千を具するのである。

次に本門の一念三千は、釈尊が寿量品に至って、本因妙の九界、本果妙の仏界、無始常住の十界互具・百界千如の正報の開顕に加えて、本国土妙による依報の国土世間常住が開顕され、釈尊の身の上における円満なる三千を示された。在世の衆生は過去の宿縁によって、よく仏の一念三千を信解し、自ら永遠の生命の自覚に立って等覚の益を得、さらに一転して、因果具時の妙法蓮華経が久遠下種の体であることを覚知し、凡身に立ち返って妙覚の悟りを得た。これを本門脱益の化導と言い、因果国三妙合論の一念三千である。

さて、以上の一念三千は在世正像までの釈尊化導の領域における法相であり、末法に民衆にとっては、去年の暦、昨日の食のようなもので、なんらの用をもなさない。末法のための一念三千は文上の一念三千と明確に区別すべく、ただ文底に存するのである。大聖人は、この相違を各御書に説かれている。『観心本尊抄』の文段起尽の難解はさることながら、正しく立て分けて見れば、
 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出(い)でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以って胴体なり。此れ即ち己身の一念三千具足、三種の世間なり」(御書654頁)
の文に、能化・所化一体にして、無始の本因・本果・本国土常住の一念三千を説かれてある。釈尊在世における本門脱益の本尊の体相を示されることが明らかである。
右文の次に示される、
 「此の本門の肝心、南妙法蓮華経の五字」(同頁)
の文の『肝心』の二字は、まさしく文上脱益を排除して文底下種を顕す語であり、この二字に剋目すべきである。
また『開目抄』には、
 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘して沈みたまえリ」
と示されて、文底の意が顕著である。ここに言われる一念三千は、天台の諸法実相ではない。天台の一念三千の語を用いて、本地難思境智冥合の妙法蓮華経に名づけられたのである。本仏の説かれる一念三千は、本門文底の法であることは当然で、天台の糟糠(そうこう)をなめるものではないのはもちろん、その内容に天地の隔たりが存する。

次に、それらの事理の立て分けを言えば、諸法実相の意義は凡夫の一念の理性に具する三千であるから、法理として認められるのみで、現実の三千の用(はたらき)はない。故に迹門理の一念三千と言う。
 これに対し、本門の本因本果における釈尊の常住と活動は、在世の衆生の観ずるところ、現実の法界三千に遍満する釈尊の用きとしての三千であるから事の一念三千と言う。
このように、釈尊一代の化導は法華経に至って、迹門の開権顕実、本門の開迹顕本と次々に深法を開示して霊山一会の大衆を仏慧に引入せられたのである。しかるに、この本迹二門の一念三千は、末法の凡夫にとっては、やはり理論の積み重ねであり、己身の仏性を発動し無作三身を開覚すべき事実上の一念三千の法体ではない。
 故に、以上の迹本理事の一念三千を束ねて理の一念三千とし、ただ文底の本因名字の妙法蓮華経、直達正観の大曼荼羅本尊をもって事の一念三千、即ち本仏の相・性・体が事実の上に顕現した一念三千とする。
 大聖人は、
 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当せの習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(草木成仏口決・同523)
と示されている。
 この本尊を唯一無二の正意と信じ、余行に渡さず南妙法蓮華経と唱えるところの即身成仏の境地を、事行の一念三千と称するのである。

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