3.本門の題目

本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるのが、本門の題目である。
久遠の昔、聖人が出現し、因と果が倶時である不思議の一法を悟られた。この一法は、法界のあらゆる事象を具える生命の当体である。これを聖人は、妙法蓮華経と名づけられた。この妙法は人即法の本門の本尊であるが、聖人がこの法を開覚し確信され、自ら南無妙法蓮華経と唱えられたのが本門の題目である。本門の本尊は本仏の不動の法体であり、その本尊に冥合するのが本門の題目である。
また、この本仏が境智冥合の法を示されたのに対し、衆生がこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるのは、そのまま本仏の唱導と色も替わらぬ本門の題目である。南無は帰命と訳し、自己の生命が本尊に帰入して一体となるの意である。
我々が本門の本尊大曼荼羅を信受するほかに、仏に成る道はまったくないものと確信して、その体名である題目を強情に唱えるところ、本尊の広大な境と我々の信心の智とが冥薫して、自然に仏果を成就するに至る。末法は智解を先とせず、ただ信の一念を専らとするのである。故に大聖人は、
 「小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。耆婆(ぎば)が妙薬誰か弁(わきま)えて之を服せん。水心(こころ)なけれども火を消し火物を焼く、豈(あに)覚り有らんや(中略)妙法蓮華経の五字は経文に非ず、その義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」(四信五品抄)
と説かれるのである。この功徳は計り知ることができない。これが本門の題目の功徳である。
ところで、印度出世の釈尊が真実本懐として説かれた法華経二十八品の品々の妙法蓮華経は、脱益に具わる題目であって、それがそのまま末法の宗旨の題目ではない。なぜなら、下種と脱益、本地と垂迹の区別があるからである。ただし、法華経二十八品の題目を義において括る時は、開権顕実の迹門の妙法と全く変わらない釈尊(本果)が証得された妙法に到達する。しかし、その本果の仏法よりさらに奥底に本因名字の仏法があり、そこが本門の題目の根源である。天台大師が、
 「本地甚深の奥蔵」(法華玄義)
と言うのも、これを意味している。この題目の体は、前に述べるように本門の本尊であることは言うまでもない。
故に、本門の題目とは迹門でも本迹一致の題目でもなく、本門八品所顕の題目でも寿量品一品二半の題目でもない。寿量文底の所詮たる、本因妙の題目である。
大聖人は、建長五(1253)年四月二十八日に、この題目を自行化他にわたって唱え出され、大難重畳、法華経の文々句々を身読の結果、竜口以後、久遠の本仏と開顕された。
大聖人己心中の妙法は、そのまま本門の本尊の当体である。建長以来の信と行の題目は、この人法の本尊に収まって、末法の宗旨の基本が仏像本尊ではなく、大曼荼羅であることを次第に顕されてのである。すなわち、大聖人が宗旨建立以来、「一心欲見仏 不自惜身命」の題目の修行によって本尊が顕され、本尊の出現を持って本門の題目の真義、久遠元初本因妙の題目の意義が究竟したのである。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。