2.本門の戒壇

本門の戒壇とは、大聖人の宗旨の三大秘法の戒壇である。
印度における戒壇は、釈尊の在世時代、祇園精舎に作られ、三重の壇が三ヶ所にあったと伝えられるが、史実とは異なる。のちに印度の各地で作られた記録があるが、実際は髄宜(ずいぎ)、授戒を行った場所を戒場と称したのである。
中国では、印度僧求那跋摩(くなばつま)が建てた南林寺の戒壇、道宣律師の淨業寺の戒壇等があり、なお、その他の高僧により各所に立てられていた。
日本では、天平時代に鑑真和尚による、奈良東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の小乗三戒壇のほか、平安朝に伝教大師の意思を継いだ義真によって、叡山の迹門円頓戒壇が立てられた。
これらに比し、法義も規模も深遠広大であり、道徳の枝葉に執われず、善悪を止揚する絶対の妙法蓮華経をもって、世界中の人々を根本の大善に帰せしめるのが本門の戒壇である。
由来、戒律儀は小乗経が最も多く、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒をはじめとして、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百界等がある。
権大乗では、梵網経の十重禁戒、四十八軽戒等である。
実大乗の法華経となると、法華受持の一乗戒が主であり、法華経を信じないところを指して謗法と言って諸悪の根源とし、また法華を受持することが一切の道徳や善の根本であると示している。これは法華経に大小乗一切の教理や仏因仏果を含み、そのすべてを統摂しているので、法華経を持てば善の源を得ることになるからである。
さて迹門の戒は、天台大師においてはまだ小乗戒を主とされたが、日本の伝行大師は大乗の梵網経や瓔珞経を事相の戒とし、宝塔品の、
 「此の教は持ち難し 若し暫(しばら)く持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦(また)然りなり 是の如き人は 諸仏の歎(ほ)めたもう所なり 是れ即ち勇猛なり 是れ即ち精進なり 是れ戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく 即ち為(こ)れ疾(と)く 無上の仏道を得たるなり」
と説く法華経の一乗受戒を内証本意とする。その所持の体は諸法実相の一念三千、理の妙法で、ただ理念的に法華経を受持するので、これを理戒という。
本門においては、大聖人が久遠の妙法を事相の上に本尊に建立せられている。したがって、この本尊を持つところが事戒となる。
すなわち、爾前迹門の謗法の諸宗を捨て、寿量文底下種の本門の本尊を唯一無二に信じ奉り、受持することが末法の即身成仏の法である。本尊受持は根本の大善で、あらゆる相対的善悪を浄化する妙用を得るのである。
このように本門の戒とは、爾前迹門の一切の法を捨て、ただ本門の本尊を受持信仰することである。それにはまず、本尊安置の場所に至り、本門の戒を受けなければならない。したがって、本門戒の一切の意義が戒の場所を表す戒壇の語に一括されるのである。
このように本門の戒壇は、本門の意義が元をなすのであって、本尊を離れて戒壇の意義は存在しない。
弘安二(1279)年の本門戒壇の大御本尊が大聖人の仏意の根源の本尊で、その他の大聖人御真筆、日興上人以下、歴代上人書写の御本尊は、この根源を広く弘通するための分身としての意義である。故に、根源の本尊を安置の所、すなわち事の戒壇である。また各寺各所の御本尊は、その功徳力がすべて根源に通じており、我らがその本尊に向かって信行を励む時は、ただちにその義が事の戒壇に当たるので、これを義の戒壇と言う。
さて、根源の事の戒壇は、その偉大な万善同帰、即身成仏の功徳により、これに詣でる信徒が次第に増加し、信徒もまたこの功徳の弘宣発揚に努め、ついに一国社会乃至世界の大多数の民衆が正法を受持信行し、本尊の大功徳が現実世界に光被する時、大聖人の遺命による大本門寺の事の戒法の意義が顕れるのである。
『日蓮一期弘法付嘱書』に、
 「国主この法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり」
と遺命されるところである。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。