1.信仰の主体
本宗においては、大聖人の立教の本義である弘安二(1279)年の本門の戒壇の大御本尊をもって信仰の主体としている。
大聖人は貞応(じょうおう)元(1222)年二月十六日、安房国片海(千葉県鴨川市)に誕生し善日麿と名づけられ、十二歳にして同国清澄寺に入り、十六歳にて得度し蓮長を名乗り、日夜、仏教の研鑽に励まれた。その後、建長五年に至まで広く各宗の法義を究められ、ついに仏法の極地を開かれるに至ったのである。
それは第一に、釈尊一代、五千七千の経巻のなかで、仏の正意は法華経であって、過去における一切衆生の救済も法華経の理念と功徳を根底として行われたのであり、また、現在も将来も、これによって行わればならないという道理に立たれたのである。
第二に、当時の各宗は法華経と釈尊の教えに背く宗であり、こうした宗教がはびこって法華真実の正意を隠す故に、国土に無量の災いが起こって民衆は塗炭(とたん)の苦しみに陥(おちい)るという原因の解明と、仏教の雑乱(ぞうらん)に対する批判の確立である。
第三に、釈尊が真実本懐(ほんかい)とされた法華経は、一往は釈尊在世の衆生を救済するために説かれたのであるが、再往は末法民衆のためである。その証拠は、釈尊が法華経の神力品(じんりきほん)において、上行等の地涌の菩薩に結要の大法を附属せされていることである。
また、釈尊滅後の未来末法は恐怖(くふ)すべき悪道の世であり、この時代をすくうべき仏法は、上行菩薩に譲与された法華経の肝要、妙法五字以外にはない。しかして、この仏法の根本義を悟った我れ蓮長こそ、まさしく上行菩薩である、との大自覚であった。
上記の三つの結論や自覚は、それぞれ別個に存在するのではなく、互いに関連するものである。
大聖人は、このような末法の救世者たる上行菩薩の確信をもって日蓮と名乗り、建長五年四月二十八日、南妙法蓮華経の宗旨を建立されたのである。爾来(じらい)、仏法の正義(しょうぎ)を明らめることが国家の平和と民衆の幸福を確立する大原理であると説く『立正安国論』をもって世を戒(いまし)め、法華経に予証された「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」「刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)」「悪口罵詈(あっくめり)」「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」等、前代未聞の法華経の行者の振る舞いを示された。
しかして、自ら上行菩薩であることを実証し、南妙法蓮華経は久遠の本法であることを顕された結果、御一生の本懐である本尊・戒壇・題目の三つの大事を円満に具備(ぐび)整足するところの本門戒壇の大御本尊を、弘安二年十月十二日に建立あそばされた。この上行菩薩の内証が久遠元初自受用身であり、その上からは、本門の釈尊も迹仏であることを、御本尊と相伝書に示されたのである。
故に大聖人の宗旨は、本門戒壇の大御本尊において極まるのであり、法義的に三大秘法のすべてを束ねる上から、
「三大秘法総在の本尊」と称し、
未来の世界全民衆の救済のために残し置かれた意味からすれば、
「一閻浮題(いちえんぶだい)総与の本尊」とも称するのである。
さらに、大聖人の宗旨を信仰する弟子や信徒は、その教えにのっとり、一国乃至(ないし)全世界の広宣流布を目標に精進するとき、やがて法華経本門の戒法が世界に流布して、真の平和と幸福が確立する。この儀において古来、
「本門戒壇の本尊」と称せられた。
ここに日蓮正宗の信仰の主体が存するのである。
2.血脈相丞
大聖人は、この三大秘法の法体(ほったい)とともに、法華経本門の文底にひそむ法義のすべてを、数多(あまた)の弟子のなかから、一人日興上人を選んで相承された。父から子へ血統が伝わるように、大聖人の宗旨の深儀は口伝(くでん)により、筆受によって、常隋給仕(じょうずいきゅうじ)の間に滞(とどこお)りなく日興上人に伝承されたのである。故にこれを血脈相承(けちみゃくそうじょう)と言う。
その総括的な証拠文献は、弘安五年九月の『日蓮一期弘法付属書(いちごぐほうふぞくしょ)』と、同年十月の『身延山付属書』であり、そのほか数多の相伝文献にも明らかである。この血脈相承により、大聖人の宗旨が末代に伝えられるのである。
けだし、仏法における血脈は師弟相対する函蓋相応の信心によるもので、日興上人が信心を根底とする行学の二道に抜きんで、大聖人の本地甚深(じんじん)の仏法を鏡のように拝鑑し奉る境地に到達されていたために、よく師の附属を受けることができたのである。
また大聖人が、本門弘通の大導師として、日興上人に絶対の信頼を置いて、唯授一人(ゆいじゅいちにん)の相承をせられた所以がここの存する。
かくて、日興上人は日目上人へ、日目上人は日道上人へと一器の水を器に移すように、清浄なる血脈の法水は六十八世法主日如上人に受け継がれている。
故に、本宗においては法主上人のみ、ただ一人、ご本尊を書写する大権を持たれている。この血脈相承によってこそ、一切衆生即身成仏の大法が正しく保持されてきたのであり、ここに日蓮正宗の存する所以がある。