本宗は一切の解了(げりょう)によらず、ただご本尊に対する信の一念の上に建立される宗旨である。したがって、古来の行業において、僧俗の区別はもとより存在しない。
すなわち、毎日の行法も方便・寿量の二品を助行として読誦し、本門の題目の信心口唱を正行とすることに定まっている。大聖人も日興上人も共に、これを末法の修行の要道として僧俗にお示しあそばされ、また僧俗に対し妙法の弘通をも分々に指導されたことが、御書やその他の文献に明らかである。
このことは、僧俗が本来、毎日の修行と下種仏法の弘通、さらに、成仏という大目的に対して平等であることを示している。
次に、僧俗の違いを考えてみる。それは崇高偉大な目的のため和合僧たるべき教団中、内側にあって仏法を受持するのが僧侶であり、外面にあって仏法を信仰し守護するのが在家信徒であるといえよう。
この内外の別は、服装や日常の法要儀式等に表れている。つまり、本宗の規定における修行と研学を終了し、袈裟・衣を身にまとい、寺院にあって諸々の儀式行事を執行し、仏法の久住と弘通のため行学の二道に精進する者が僧侶である。また、世間の家にあってそれぞれの職業を持ちながら、仏法を信じ、また供養し、行学に勤める者が俗弟子であり、いわゆる檀信徒である。
僧侶のみあって清浄の檀越(だんのつ)がなければ、仏法は地に堕ちること必至であり、その反対に、数百万の信徒を擁しても、僧侶に真の仏法護持の精神がなければ、正法正義は危殆に瀕しよう。
故に、正法久住のための僧俗相互の地位について、正しい認識こそ大切であり、仮にも誤解があってはならないのである。
すなわち、竹に上下の節があるように、おのずから根本に対する内外・遠近の秩序や筋道に差異はあるが、仏法の目的において本来平等であることを知り、僧俗が一致和合して、それぞれの持つ役割を全うしていくことが大切である。
もちろん、大聖人の仏法の法体は厳然として、唯授一人金口の血脈の上に、法主上人が所持あそばされるところであり、ここを源とする本宗僧俗の姿こそ、末法万年へ向かっての恒久的、基本的なあり方と言えよう。
要するに、現在の仏法流布の現実の姿を基本として、僧俗がお互いに絶対の信頼のもとに結ばれ、助け合うことが、今後の令法久住と広宣流布への源泉となるものである。
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なし」(異体異心事・御書1389頁)
との大聖人の金言を深く心に刻み、僧侶も信徒も一致団結を肝要として、下種仏法を宣揚すべきである。