13.善と悪

善と悪とは、人間社会における思想・行動の物指しであり、基準である。
もし善悪のけじめが失わされたならば、社会は大混乱を来たすであろう。たとえ一般的、最大公約数的であっても、現在の日本の社会に善悪の規準があり、悪事は法律で取り締まるようになっているから、国民は一往、安定した生活を送ることができる。これがいわゆる世間律である。
しかるに、人間は煩悩充満の凡夫で瞬時の享楽や五欲への執着が強く、地位、名誉、財産を得るために、法網にさえ掛からなければ、悪事をも敢えて辞さぬ人が多い。これらの人々が世間の法律をくぐり抜けて、様々の悪事を行い、成功・失敗に一喜一憂しつつあるのも一面の現状である。
とすれば、むしろ要領よく悪いことをしながらも、自己のためを図ることが幸福を得る道であり、失敗すれば元も子もないが、うまく成功すれば悪事も役に立ち、かえって善となると考える者が多い。
もし相対観より善悪を見るならば、この見解は誤りであり、かつ救いようのない悪人と言えよう。もし究極の絶対観より見るならば、このような我利我利亡者も正道に活かす道が存する。この絶対観はあるいは誤解を生ずる意味もあるので、最後に仏法の究竟のところよりその辺を明らめたい。
そこでまず、相対的善悪の規準から考えてみる。世間の法律は人間社会の善悪観が規準となっているが、より詳しく人間と社会を取り巻く善悪の意識乃至観念として道徳律がある。法律で規制されない行為や思想でも、道徳的見地より悪と決定されることが多くある。大略的に言えば、身による殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫、口による妄語・綺語・悪口・両舌、意による貧(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の十悪で、これらの行為によって、世間より非難され信用を失うのである。
しかし、これらの種々の行為は、時と場合によってその善悪の判断が異なり、また時代の推移によっても、各人の見解の相違によっても異なることが多い。こう考えると、何が善で何が悪であるかさえ混沌として明確な判断を欠き、多くの民衆は、こうした善悪に無関心な生活をしている現状である。
また、善悪を判ずることができると信ずる者も、それが独断である場合も多いのである。色々な主義や教えによる目的観、人生観、世界観が異なっていれば善悪の規律も異なり、したがって、それに基づく見解も異なるのである。
今の世の不幸の根元は、善とは何か、悪とは何かということに対する混迷にある。そのために、社会にあらゆる不幸が渦を巻いているのである。
以上により、善悪を単に我々の生活上の幸・不幸に関係のない抽象的な概念と考えるのは、当然、誤りである。
それならば、善悪が具体的な生活上の幸・不幸に関係がある理由はなんであろうか。これは善因善果・悪因悪果の因果の道理によって説明される。悪心悪行によって不幸が、善心善行によって幸福が得られることは、世間眼前の事実である。しかし、時として逆に見える場合もあり、特にこの世界だけの善悪の因果では説明がつかないことが多い。生まれつきの幸・不幸も、今世の因果論だけでは納得がいかない。ここに苦楽得失は自然であり、あるいは偶然であるとして、因縁因果を否定する見解も起こってくる。
しかし、世の貴賎苦楽の現象を一括して証明する普遍的心理は、三世わたる生命の因縁因果にあり、この法則を教えるのが仏教である。したがって、世間の法律や道徳では説明できぬ不可抗力や生まれつきの幸・不幸の理由も、善因善果・悪因悪果によるものであり、過去の善悪の因は現在の善悪の果として表れ、未来の善悪の果は現在の善悪の因によるという法則が白日のもとに照らし出されるのである。故に、人生は運命論的に決まっているものではなく、常に未来の苦楽昇沈に望む自由自在の生命であると教えるのが仏教である。
したがって、いかに生きるべきかという命題に対する生命の法則と生活の原理は、仏法による善悪の問題を離れては空理空論となるのである。
また、善悪のなんたるかを定める基準の問題も、三世にわたる人生観、法界観から決定されなければならない。以下、ごく簡略に筋のみを考えてみよう。
仏教の初門ではまず、自我の罪悪を説いている。放逸(ほういつ)な自我が、いかに罪悪を造るか、説明の要はあるまい。故に、自我を滅するという小乗の教えとして、無我に入る道を説くのである。自我とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の境界であり、無我とは声門、縁覚の二乗である。この段階では自我が悪、無我が善となる。
しかし、無我は消極的、自己本位的な方向の悟りであって、仏教の方便である。人間や宇宙法界の存在は、すべてお互いに依り合い、助け合って存在している。そこで一個の存在を他の多くのために役立てるところに、善が存するのである。この原理によれば、善とは無我にあるのではなく、進んで積極的に善事を行い、人を助け、あるいは人のためになるように活動すること、すなわち、自らの幸福にのみ酔い、自らのためにのみ執著していた小我より、大きな視野の自我を発見し、この道に向かって生きることが善となる。したがって、これに対する自己本位の無我は悪となるのである。この無我に対する大きな視野の自我とは、権大乗の菩薩的人生観を意味する。しかし、積極的に善事を行い、人を助けると言っても、現実は理想の通りにいかず、真に自他幸福への善道を得るものと言い難いのである。
次に、法華経による人生観の一部を述べてみるならば、世界の現実の相は種々雑多で、順逆定まらぬが、宇宙法界の人生は本来、平等即差別、差別即平等、善悪互いに具わる実相永遠の生命であり、因果の理法の根本は、円融円満の妙法にある。ただし、多くの人々はこの理を覚知せず、空しく苦悩に沈んでいる。妙法実相の境界を開覚することこそ、自他共に即座に幸福を得る根本道である。このような信念は、自らを妙法の生命と信じ、これを確信することによって可能である。元来、通常の善悪は相対的なもので、その意義は対するところにより変動する。今、一切の善悪を包括し浄化する法華経の大善が現れる時、これに背く前述の九界すべての立場は悪となるのである。
大聖人は、
 「善と悪とは無始より左右の法なり、権境並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る。若し爾(し)らば等覚までは互いに失が有るべし。法華宗の心は一念三千、性悪・性善は妙覚の位に猶備われリ」(治病大小権実違目・御書1237頁)
と説かれ、一切の善悪を含み止揚する絶対善を示されている。
しかし、実相妙法の生命を信ずるというも、ただ理論的にこれを知るのでは、その力が弱く、現実の妙法の力強い生命になりきることはできない。
そこに仏法の正しい筋道と立て分けを知ることが肝要となる。その肝要の上から、自らの生命が妙法化され、たくましく正しい妙法の法界観、人生観を得て、人生に活躍する時、ここにまことの善の道が存在する。その要とは、一代仏教の真髄である法華経の本門寿量品の文底に沈められた妙法蓮華経である。すならち、大聖人の三大秘法出現の時である現代は、この妙法を一心に信受するところに真の大善が存するのである。たとえ法華経を読み論ずるとも、ただ理論的な在り方で始終する類の者は、現実の妙法の用きが具わらない。かえって、種々の悪因縁によって悪道に堕ちるから、結果的にすべて悪となる。
以上、相対観の上に従浅至深的に善悪を述べ来たったのであるが、本因妙の仏法を信ぜず謗る者は、根本の大善に背く故に、すべて大悪を構成するのである。
次に、絶対論の上からの善悪を一言しよう。絶対の善とは、末法の本仏大聖人の人法一箇の妙法蓮華経である。生命の本源であり、仏の大慈悲の体であるとともに、一切に遍く存在し、十界のあらゆる生命相、すべての善悪を具有されている。
したがって、個々の命を妙法の本尊に帰する時、相対的な善悪はすべてその当体のまま、絶対の善に帰入し、無限の徳性を顕すのである。あらゆる悪事悪徳の生命も、妙法に帰し、妙法の生命として生きる時、自然に不可思議功徳利益の妙用(みょうゆう)を顕し、その当体が大善となる。小善に終始する社会人も、自己の安心立命しか考えぬ二乗根性の人も、すべてが妙法に帰命する時、大善の生命と生まれ変わる。
社会に究極的な善をもたらし、地獄より菩薩までのあらゆる生命、善悪の体をそのまま妙法化し、大善化せしめるのは、末法の本仏大聖人の大法なのである。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。