現在、日本の仏教で真の即身成仏を標榜(ひょうぼう)できるのは、日蓮大聖人の正系たる日蓮正宗のみである。教法が最高にして純粋でないところに、即身成仏の意義も、現象もありえないからである。
他の門下や真言密教でも即身成仏を説くが、秘密の通力、天眼力、荒行等をもって人々を瞠目(どうもく)せしめ、これを即身成仏と誇称する方向が強い。このような、神秘力、念力を即身成仏と考えるところに、むしろ本来の教道を忘れて呪術(じゅじゅつ)化した仏教上の誤謬(ごびゅう)が存する。
大聖人は、『唱法華題目抄』に、
「阿蝎多(あかた)仙人外道は十二年の門耳の中に恒河(ごうが)の水をとどむ。婆籔(ばそ)仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階は霧をいだし、鸞巴(らんぱ)は雲をはく。第六天の魔王(中略)権教に宿習ありて、実教にいらざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力にはよるべからず」
と喝破(かっぱ)されあそばされた。
かの通力無比の目連尊者が、母の餓鬼道の苦を助けられなかったが、法華経において成仏し、初めてその願いが達せられた。故に、成仏が仏道修行の目的であり大切であることが理解されよう。そのためには、大聖人の仰せの如く、利根と通力によらず、まず、法の邪正偏円を明らめることが肝要である。
即身成仏の「即」の字義は本来、天台大師が法華円教の義を顕し、一念三千の意に基づいて、五十二位を六即に束ねて円位を判じたことによる。いわゆる六の故に差別を離れず、即の故に平等を離れず、平等に即して差別、差別に即して平等なる円融の理を、即によって示されたのである。しかし、その実体は即の意を本門の仏の事具に点じ来たって、二乗作仏・久遠実成の二大綱格を具える法華経の文底願意において、初めて一切衆生の即身成仏が見出されるのである。
二乗作仏も久遠実成もない大日経・金剛頂経に、一念三千の法門や即身成仏の実義があろう筈がない。弘法大師に『即身成仏義』なる一巻があり、密教の理具・加持・顕徳をもって即身成仏を説明せんとして呪術的・神秘的な現証を用いるが、これも真の成仏ではない。
即身成仏は、法華経の大婆品に竜女の即成の現証があり、さらに本門の寿量品において、初めて大衆の胸中に顕現した究竟の化導である。
その実義は、すなわち妙法蓮華経で、久遠よりの成仏の本種子である。霊山の大衆の即身成仏は、釈尊の化道中、ただ寿量品のみに存する。したがって末法に入っては、大聖人の下種の妙法蓮華経、すなわち三大秘法が即身成仏の大法そのものなのである。なぜならば、爾前迹門の次元は迷いより悟りへ、九界より仏界へ進むことを説くから、どうしても改転の成仏となる。本門所顕の重では、始覚の十界互具より本覚の十界を示し、本来本有の十界が寿量の仏身、無作三身であるとする。無作とは、造作のない法のままの姿のことである。
すなわち、本門の寿量品の顕本は、その指向するところ、一切衆生、否、一切の存在が本覚の無作三身の仏であることを示すのである。
この無作三身は理に即する仏であるが、子細に検するとき、任運自然に仏の用きを顕している。例えば、草木の体は本覚の法身であり、時節を違えず花咲き実を成ずる知恵は報身であり、成実して有情を養うのは応身である。また、有情においても各々の身体は、分々の妙法の体を顕すから無作の法身、分々の知恵は無作の報身、それぞれの作用を持つのは無作の応身である。ただし、これはあくまでも妙法理上の一往の解釈であり、直ちに真実の末法の無作三身ではない。この理を再往、仏法の本源たる本因妙の実修によって、事証の上に立て示されたのが、下種の南無妙法蓮華経の教法である。
大聖人は、『御義口伝』に、
「総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり、無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(同1765頁)
とも、
「この無作の三身をば一字を以って得たり、所詮信の一字なり」(同1766頁)
とも指南せられた。
故に、無作三身とは南無妙法蓮華経を信ずる信の一念に顕現する体徳であり、ここに天台末流で言う本来自然覚の無作三身と、本質的に異なる仏法の実体が存する。すなわち、右『御義口伝』の文により、両重の総別が拝せられる。
総じて言えば、一切衆生が無作三身であるが、別しては、大聖人の言を信じて南妙法蓮華経と唱える弟子・檀那がこれに当たる。また、総じては弟子・檀那で、別しては前代にも後代にも不世出の法華経の行者たる大聖人が、真実究竟の無作の三身である。
その仏を信じ、無作三身の宝号たる題目を唱える人は、我が身を無作三身と感ずるに至る。信ずるところに、その当体おのずから不思議の徳を成就して無作三身となり、その所作を行い、用きを成ずるのである。
しかるに、爾前迹門や本果妙の方便の仏果に執われ、また外道の悪見に入って本因妙の仏法を信じない者は、無作三身の功徳が具わらず、無作三身となることができないのである。特に、権教を信じて南無妙法蓮華経を怨愱(おんしつ)し、誹謗する者は、天地法界の法理に背く謗法罪を構成し、したがって迷より迷に入って、自ら長く悪道に沈淪(ちんりん)することになる。しかるに、この本法を信じ行ずる者は、その身が本来、妙法の仏と顕れるのである。
大聖人を本仏と仰ぎ奉る日蓮正宗の教義信条においてこそ、我らの即身成仏が可能であり、また信心修行によって真の成仏が顕現するのである。