1.本門の本尊

法華経神力品で末法濁(じょく)悪の民衆のため、釈尊はあらゆる教法の意義を妙法蓮華経の五字に込めて、上行菩薩に付嘱された。これを結要付嘱(けっちょうふぞく)と言う。大聖人は自ら上行菩薩としての大自覚により、この要法を妙法蓮華経と悟って弘通せられたのである。こうした付嘱の意義により、妙法蓮華経は釈尊の手から上行菩薩の所有に移っており、一往は上行菩薩、再往は久遠の本仏の立場から、末法の宗旨が建立されたのである。
大聖人のお立てになった末法の宗旨は三大秘法で、いわゆる本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目である。この三大秘法の中でいずれを中心とするかと言えば、本門の本尊である。これは、御書の中で三秘の名目を挙げられるところで必ず本尊が中心で、三秘随一の義が明らかである。また、本尊の字義には根本尊崇(そんすう)、本来尊重、本有(ほんぬ)尊形の三義があり、それぞれ体と用と相を顕すが、この辺からも本尊が三秘の主体をなすことが明らかである。根本のところにおいては、本尊・戒壇・題目の三秘は一体であるので、御書ではそれぞれを寿量の法体としてお示しになっているが、その間、おのずから区別がある。
本尊を示されるべくして妙法五字あるいは題目五字と表現せられたところは、主として法体に当てられ、題目としての妙法五字は信心修行に当てて説かれている。一般日蓮宗ではこのけじめが解らずに、題目を根本の法体とし、そこから三秘を解説するが、これは大いに誤っている。
本門の久遠の義によりすると、大聖人が初めて末法での付嘱の結要の妙法を三秘に開かれたものではない。三秘そのものが久遠より存在することは、『三大秘法抄』等の御書に示されている。したがって、神力品の結要付嘱は、単なる題目のみの付嘱ではない。法体に約して本尊の付嘱である。つまり、久遠以来の三世諸仏の本尊たる妙法の付嘱なのである。これを仏の自行に約せば本門の題目の付嘱となり、また、人に約せば末法に出現される上行菩薩の当体が、本尊となるべき資格の付嘱である。
 「今日蓮が所行は霊鷲山(りょうじゅせん)の稟承に介爾計りの相違なき、色も変わらぬ寿量品の事の三大事なり」(三大秘法稟承事・御書1595頁)
の文、および、
 「戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥(たし)かに霊山において面授口決(めんじゅくけつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・御書1773頁)
の文が、明らかにこれを証明されている。このように、大聖人の宗旨にとって本尊は、もっとも大切であるが、佐渡以前では、その相も法門も明らかではない。『三沢抄』の、
 「仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書1204頁)
の文の通りである。
竜口の頸の座は、上行菩薩の迹を払って直に久遠元初の本仏日蓮と顕れたもので、これを末法の発迹顕本と言う。こののち、本仏の境界において本門の大曼荼羅本尊が顕された。久遠元初の仏の事の一念三千は、大曼荼羅によって初めて、我々末代の衆生に示されたのである。したがって、大曼荼羅が大聖人の出世の本意であり、末法万年の大衆が即身成仏の大利益を得る唯一の本尊である。
大聖人の佐渡以後の御書には、人本尊と法本尊の表現の違いがあるが、それぞれの文意を正しく明らめ、また大聖人の仏法全体、御書全体の総合的立場から見ると、すべてが人即法の本尊としての自受用身即一念三千の大曼荼羅、ならびに法即人の本尊としての一念三千即自受用身の日蓮大聖人を顕されている。
この自受用身は、釈尊の本門において応身仏が次第に昇進した自受用身とは異なり、久遠元初本因妙の仏であり、その当初における法・報・応三身中の智慧の報身を表とするのである。また、この自受用身に具わる三方面の特性が本門無作の法・報・応三身如来であり、一身即三身、三身即一身の自在の体用を持たれている。
各御書の文中の「釈尊」の語にも、印度出現の仏を指す場合と、久遠元初の名字即の釈尊、すなわち末法出現の大聖人自身を指す場合があり、特に『観腎本尊抄』における本尊段の文では、後者の意を含み明かされている。
そもそも、仏教において根本の法と人は一体であるが、迹を垂れた形における小乗の人と法、権大乗の人と法、迹門の人と法、迹中の本門の人と法も、それぞれ一体である。ただし、迹中の各々の人と根本の法は当然一体でなく、法勝人劣である。
大聖人はこのことを『本尊問答抄』に、
 「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈尊・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生したまへり。故にまったく能生を以って本尊とするなり」
と明らかに説かれている。
金色十二相の釈尊は、法華経迹門・本門の仏であっても、文底下種の妙法に比べれば、垂迹化他にわたる方便の仏身であるから劣るのであり、久遠元初本因妙の釈尊、凡夫即極の仏が、妙法蓮華経と一体不二、人法体一である。釈尊とあるからなんでも金色三十二相の釈尊と解する者は、御書の真意に達することはできない。
法界の原理であり、生命の実相そのものである妙法蓮華経も、仏の悟りによって初めて示されるのであり、仏でなければ法の存在は明らかにすることはできない。すなわち、法には必ず人が具わるのである。また、尊厳な人格を持たれる凡夫が、法界中最初に我すなわち妙法と悟ることによって仏と成ったのであり、もし法がなければ仏は顕れない。すなわち、人には必ず法が具備されている。故に、人に法が具わるのを法即人と言い、法に人が具わるのを人即法と言う。人法は一体であって、また、おのずから区別がある。ここに、久遠元初妙法蓮華経の本尊の当体がある。
この久遠元初の事相を末法に移されて、大聖人の胸中に具わる妙法が法本尊、日蓮は人本尊の当体で、すなわち人法一箇である。しかして、末法万年の衆生を導くためにその境界を顕された十界互具の大曼荼羅が人法一箇の本尊である。中央の「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」が大曼荼羅の中心で、人法一箇を顕し、左右の十界は久遠元初自受用身たる大聖人の一念に具わる十界互具・一念三千を示されている。
本尊も文永、建治、弘安と次第に充足されるが、終局的には日興上人へ付嘱された弘安二年(1279)年の本門戒壇の大御本尊が究竟の法体である。この御本尊に向かい奉り題目を唱える時、仏力・法力によって久遠よりの我々の胸の内にひそんでいた信心が目覚め、成長し、ついに金剛のような不退の一念となる。かくして、我々の生命に仏を覚(さと)る大功徳を得るのである。
ここに、本尊を定めて信心することが、一生成仏のため、また幸福の根本を確立する要道である。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。