盂蘭盆会[お盆]


毎年七月十五日に、先祖供養を行う行事を「お盆」と言い、正式には「盂蘭盆会」と言います(地域によっては八月に行う所もあります)。
春秋の彼岸と共に、先祖供養の日として一般にも広く行われている行事です。

盂蘭盆会の意味

「盂蘭盆」とは、梵語のウランバナの音写であり「倒懸(さきがけ)」という意味で、餓鬼道の飢えや渇きの苦しみが、逆さに吊るされた苦しみに似ているところから、このように言われます。また盆は、供物を盛る盆器を意味するという説もあります。
盂蘭盆会は、悪道に堕ちて苦しむ人を救うために行う儀式であり、日本で行われるようになったのは、仏教伝来から約百年後の第三十七代斉明天皇の時代といわれています。

盂蘭盆会の起源

仏説盂蘭盆経には、次のような説話が示されています。
釈尊の十大弟子に、神通第一と言われた目連尊者という方がいました。目連尊者は幼い時に母と死別したので、生前に孝行できなかったことを悔(く)い、それを何よりも悲しく思っていました。
そこで、母の様子を知るために、これまでの修行によって得た神通力をもって三千大千世界を見渡したところ、母・青提女(しょうだいにょ)は生前、欲深く、物を惜しんだ慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちていました。その姿は骨と皮だけにやせ衰え、のどは針のように細く腹だけがふくれ、見るも哀れな餓鬼となっていました。
これを見て、大変悲しんだ目連尊者は早速、神通力をもって食物を母に与えようとしましたが、母が実際に口に入れようとすると、突然燃え上がり、母は炎に包まれてしまいました。驚いた目連尊者が神通力で水をかけると、水は炎に変じてさらに燃え広がり、火だるまになった母は悲鳴を上げて泣き叫ぶのでした。
これを見て、自分ではどうすることもできないことを知った目連尊者は、急いで釈尊のもとへ駆けつけ、母を救う道を尋ねました。
釈尊は、静かに教えられました。
 「目連よ、お前の母は罪が深く、お前一人の力では救いがたい。いや、天神・地神や外道の導師、四天王でも救うことはできない。
この七月十五日に百味の飲食を添え、十方の聖僧を招いて供養しなさい。そうすれば、母を餓鬼道から救い出すことができるであろう」
目連尊者は、その教えの通りに実践し、母を餓鬼道の苦しみから救うことができました。
喜んだ目連尊者は「この大功徳を人々にも伝えて、それぞれの両親はもとより、七世の父母をも救いたいと思います」と願ったところ、釈尊は「それは、私の望むところである」と、一座の大衆に対して、のちのちまでもこの仏事を行うように勧められました。これが盂蘭盆会の起源となったのです。

真の成仏は法華経による

目連尊者が、自らの神通力をもって母を救うことができなかったのは、目連尊者が得たのは小乗の最高位に過ぎず、実大乗の法華経の悟りには遠く及ばなかったからです。また、釈尊の教えに従うことによって母を救い出すことはできましたが、それはわずか一劫の間、餓鬼道の苦悩から救ったに過ぎなかったのです。
母・青提女の実際の成仏について、日蓮大聖人は、
 「目連尊者と申す人は法華経と申す経にて『正直捨方便』とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしいかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。この時こそ父母も仏になり給へ(中略)目連が色心は父母の遺体なり、目連が色心、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(盂蘭盆会御書・御書1376頁)
【通訳】目連尊者という人は、法華経に『正直に方便を捨てて』と説かれているように小乗の戒律二百五十戒を投げ捨てて、南無妙法蓮華経と唱えたことにより、のちに多摩羅跋栴檀香仏という仏に成ることができた。この時に、目連尊者の父母も仏になったのである。目連尊者の心身は父母の遺した身体である。故に目連尊者の心身が仏になったときに、父母もまた成仏したのである。
すなわち、目連尊者はのちに法華経を信受したことによって、自身が多摩羅跋栴檀香仏という仏に成り、その功徳によって初めて、父母を成仏に導くことができたのです。

末法の法華経は南無妙法蓮華経

何よりも、今生きているすべての人が成仏する妙法によってこそ、亡くなった方を成仏へと導くことができる、ということを忘れてはなりません。
その意味から言えば、目連尊者が信じた法華経も末法においては、一般衆生が成仏できる教えではないのです。あくまで御本仏日蓮大聖人が唱え出された文底本因下種の南無妙法蓮華経に限ります。そのことを大聖人は、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事・御書1219頁)
と仰せられています。したがって先祖供養も、私達が大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、大御本尊と境智冥合して自ら即身成仏の境界を開き、その大功徳を先祖等に回向することが最も正しい在り方なのです。
もしも、私達が誤った教えによって供養すると、目連尊者が神通力で母を苦しめてしまったように、先祖を安穏に導くどころか、かえって悪道に墮としてしまうことを知らなくてはなりません。
本宗で盂蘭盆会を修する意義は、一つには、私達が自ら功徳を積み、それを回向して、真の先祖供養を修することです。つまり寺院の盂蘭盆会に参詣して塔婆を建立し、住職と共に読経・唱題し、焼香して、亡くなった方々の追善供養をするのです。
その際、住職と共に読経・唱題をするように心掛けましょう。大聖人は、
 「だんなと師とをもひあわぬいのりは、水の上の火をたくがごとし」(四条金吾殿御返事・同118頁)
【通訳】信徒と師匠の僧との思いがあってない祈りは、あたかも水の上に火を焚くようなものであり、かなうことはないのである。
と仰せられて、住職と心を合わせて祈ることの重要性を教えられています。
二つには、盂蘭盆会を機に、改めて先祖供養の大切さを理解し、間違った教えによって供養している人々に正しい先祖供養を教え、御本尊のもとに導くことにあります。
ともあれ、本宗では毎日がお盆であり、お彼岸であると心得て、先祖の供養を怠りなく務めていく大切さを、古来「常盆・常彼岸」という言葉で教えています。
盂蘭盆会に当たっても、私達は妙法の御本尊への信行に励み、その功徳を回向することが正しい先祖供養であると肝に銘じ、精一杯の追善供養を心掛けましょう。
 

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。