第一節 土浦教会所開堂入仏式
日応上人の御指南を賜り、五代目藤藏氏が中心となっ て進めていた菩提寺、日蓮正宗第二十九号教会所、通称「土浦教会」が、東京法道会支部として発足した。
大正二年(一九一三)四月二十七日、御隠尊日応上人が東京より御下向遊ばされ、法道会担当教師・早瀬慈雄師、また第三教区より水谷秀円師(後の日昇上人)、富田慈妙師(後の堅持院日法能化)、本證寺・篠原広要師など有縁 の僧侶、更には土浦講中をはじめ、東京よりも妙光寺総代、妙道講・妙典講・本門講の信徒が出席し、盛大に開堂入仏式が奉修された。
当日は、夜になってから「布教大演説会」が開催され、出席僧侶から講演があり、三百名の聴衆者があって盛大に執り行われた。
日応上人は「慶讃文」を、
「根深ケレハ枝シケシ、源遠ケレバ流レナカシト云フコレナリ。周ノ代七百年ハ文王ノ禮孝ニヨル。秦ノ世ホドナキハ始皇ノ左道ナリ。日蓮カ慈悲廣大ナラバ南無妙法蓮華経ハ萬年ノ外未来マテモ流布スペシ。日本國ノ一切衆生ノ盲目ヲヒラケル功徳アリ無間地獄ノ道ヲフサギヌ。ト
謹(つつしん)テ我カ宗教ヲ案スルニ其ノ教理ノ尊高ナル一代諸経ニ卓絶シ、更ニ秘奥ノ妙體ヲ開示ス、其施化ノ妙用ヲ窺(うかが)へハ即チ智愚ノ利鈍ヲ攝収(せっしゅう)シテ普ク法益ヲ被ラシム。所以ニ倍ス信徒増殖シ、寺門繁栄ス。彌(いよい)ヨ四海二流溢(りゅういつ)シ萬邦ニ廣布スルノ日、亦近キニアラン。日蓮カ慈悲廣大等ノ金言良ニ所以アル哉。
爰(ここ)ニ當土浦町ノ住永井藤藏氏ナルアリ、家商賣ヲ以テ業トス。真性謹直篤實ニシテ其業二精働ス、是ヲ以テ資産豊饒家運隆昌ナリ、嘗(かっ)テ亡父藤藏氏我大法ノ甚深微妙ニシテ功徳廣大ナルニ感シ、本宗ヲ信シテヨリ已来父子等協力、或ハ浄財ヲ投シ、令法久住ノ資ニ充(あて)、又隨力教化以テ信徒ヲ増殖セシム。其外護志念ノ熱誠罕(まれ)二見ル處ニシテ為法盡瘁(じんすい)ノ功亦偉大ナリト云フベシ。今ヤ已ニ一族相謀り一宇ノ道場ヲ造立セント曾(かっ)テ拮据(きっきょく=よくつとめること)経營ニ勉メ、ヨナラズシテ功成リ本日開堂ノ式ヲ擧ク。
往昔(おうじゃく)、月氏ノ須達ハ黄金ヲ布キ祇園ヲ創シ、震旦ノ漢明ハ摩竺ヲ聘(へい=礼を厚くして人を招く)シテ白馬寺ヲ設ケ、我朝ノ上宮太子守屋誅シテ四天王寺ヲ建ツ。然レトモ彼ハ在世正像上代ノ機、此ハ末法濁悪澆季(ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世)ノ時ナリ、彼レハ在世脱益ノ佛體ヲ奉迎シ、此レハ文底下種ノ大本尊ヲ安置ス。彼是轍(てつ)ヲ同フシテ其果報ヲ論スヘケンヤ。然ラバ則チ此道場ニ詣テ祖先ノ追祐ヲ祈ラバ頓(とみ)ニ妙覺果滿ノ菩提ヲ證シ、息災延命ヲ禱ラバ福壽安穏ノ快楽忽ニ至ラン。又本宗ニ於テ宣揚セントスル所ハ佛教ノ實義本門壽量文底下種ノ大法ニシテ、内ニハ高遠ナル教理ヲ堪へ、外ニハ順應ノ化導ヲ起シ、二世安楽ノ本分ヲ果サントスルニ在リ。願クハ下種ノ三寳冥ニ加シ顕(あきらか)ニ應シテ所願成就ナラシメ給へ。更ニ請フ法輪常ニ轉シ皇圖常ヘニ榮へ信徒ノ祖先速ニ菩提ヲ證シ子孫長久家門隆盛ナランコトヲ
乃至法界周遍利益
南無妙法蓮華經
日蓮正宗前管長 大石日應
大正二年四月廿七日」
と朗読遊ばされ、この度の教会所開堂に当たっての永井藤蔵氏等一族の強信を称えられた。
※上記は「本妙寺百年史」より転載。「慶讃文」の句読点、ルビーは今回加筆
※「慶讃文」略解
「慶讃文」は、大聖人の「報恩抄」(御書1036頁)からお言葉を引かれ、広宣流布の日の近きことを示されると共に、永井家二代にわたる御供養と折伏の功の多きことを讃嘆され、本日開堂式を挙げられるに至ったことをお示しです。
次にインドの須達は祇園精舎を創建し、後漢の明帝はインドから迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん) を招へいして白馬寺を設け、日本の聖徳太子は守屋を誅して四天王寺を建てたことに触れられ、さらに、それら過去の供養と今回の土浦教会(本妙寺)の開堂供養との違いを「然レトモ彼ハ在世正像上代ノ機、此ハ末法濁悪澆季(ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世)ノ時ナリ、彼レハ在世脱益ノ佛體ヲ奉迎シ、此レハ文底下種ノ大本尊ヲ安置ス」と述べられ、種脱相対の意からその功徳の大なること決判されています。
そして、「然ラバ則チ此道場ニ詣テ祖先ノ追祐ヲ祈ラバ頓(とみ)ニ妙覺果滿ノ菩提ヲ證シ、息災延命ヲ禱ラバ福壽安穏ノ快楽忽ニ至ラン」と、本日開堂した本妙寺(土浦教会)に永く参詣することの功徳を説かれ、「子孫長久家門隆盛ナランコトヲ」のお言葉で慶讃文を締め括られています。
※日応上人と永井家を含めた本妙寺について歴史は「本妙寺百年史」に詳しく解説されています。