御難会(ごなんえ)は、宗祖日蓮大聖人が文永八(1271)年九月十二日、竜口法難において、それまでの上行菩薩の再誕としての垂迹(すいじゃく)身を発(はら)い、久遠元初の御本仏としての本地身を顕されたことを御報恩謝徳申し上げる法要です。
法難に次ぐ法難
大聖人の御一生は、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんしん)・天台・伝教等の仏教の大弘通者も肩を並べることができないほど、法難に次ぐ法難の連続でした。そのことを、大聖人は『開目抄』に、
「二十余年が間此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」
と仰せられています。
大聖人がこのように数多くの法難を受けられた理由は、法華経が真実の教えであること、法華経を身読(色読)して御自身が末法の法華経の行者にほかならないこと、この二つを証明されることにあったのです。
法華経の身読
釈尊は、法華経の法師品第十から見宝塔品第十一においてこの教を弘める功徳が甚大(じんだい)であることを説き、宝塔品では三箇の鳳詔(ほうしょう)をもって、未来に法華経を弘めることを勧められました。
そこで、多くの弟子達は法華経の弘通を願い出ましたが、その時、多くの菩薩は、釈尊滅後の弘通を願い「勧持品二十行の偈(げ)」をもって、弘経に臨(のぞ)む決意を述べました。
すなち多くの菩薩が、悪世末法において、たとえ悪口罵詈(あっくめり)、刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)、追放等の迫害を加える俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)、道門増上慢(どうもん)、僣聖増上慢(せんしょう)の三類の強敵が出現しようとも、すべての大難を忍んで法華経を弘通すると誓ったのです。
しかし釈尊は、これらの菩薩も悪世末法の大難には耐えることはできないとして、地涌の菩薩を召し出されました。そして如来神力品第二十一に置いて、その上行等の本化の菩薩に法華経の肝要を付嘱し、末法の弘通を託されたのです。
大聖人が『寂日房御書』に、
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり、すでに勧持品二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」
と仰せられているように、法華経を弘通して数多くの迫害を受け、これらの経文を身をもって読まれた法華経の行者は、大聖人をおいてほかにありません。
『開目抄』にも、
「末法の初めのしるし『恐怖(くふ)悪世中』の金言あふゆへに、但(ただ)日蓮一人これをよめり(中略)日蓮なくば誰か法華経の行者として仏語をたすけん」(同541頁)
とご教示されているように、大聖人は数々の大難を受けられ、法華経の予言が真実であることを証明されたのです。
さらに『右衛門大夫殿御返事』に、
「当今は末法の始め五百年に当たりて候。かかる時刻に上行菩薩御出現あって、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切の衆生にさづけ給うべきよし経文に分明なり。又流罪死罪に行なはれるよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云はく『日月の能く諸の幽冥を除くが如く、斯(こ)の人世間に行じて能(よ)く衆生の闇を滅す』等云々。此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五の文字の中の人の文字をば誰とか思し食す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり」(同1435頁)
【通訳】まさに今は末法の初めの五百年に当たっている、この時に上行菩薩が出現し、南無妙法蓮華経の五文字を日本国の一切衆生に授けることが経文に説かれ、また上行菩薩が法難に値い、流罪・死罪に処せられることも明らかである。日蓮は、この上行菩薩の使いにも似ている。それは、この法華経の教えを弘めている故である。如来神力品に「日月の光明が諸々の闇を除くように、この人は世間において法華経を行じ、弘通して、人々の苦しみの闇を照らして救うのである」と説かれている。この「世間において法華経を行ずる」と説かれているお方とは、いったいどなたであろうか。そのお方こそ、まさに上行菩薩の再誕なのである。
と御教示のように、末法の法華経の行者でたる日蓮大聖人は、釈尊の結要付嘱を受け、末法の法華経弘通を託された上行菩薩の再誕にましますのです。
竜口法難の意義
大聖人が受けられた数々の法難の中でも、竜口法難は特に重大な意味を持っています。
大聖人は文永八(1271)年九月十二日夜半、留め置かれていた引付衆・武蔵守宣時の邸から連行され、丑寅の刻(午前三時ごろ)、竜口の刑場(神奈川県藤沢市)の頚の座に、悠然と端座されました。そして武士の一人が太刀を抜き、大聖人の頚を斬ろうとしたその瞬間、江ノ島の方角から不思議な光物が飛び来たり、太刀取りは眼がくらんで倒れ伏し、他の武士達も恐怖におののて逃げ出し、ついに大聖人の御頚を斬ることはできなかったのです。
この竜口法難について、大聖人は『開目抄』に、
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにおぢるなむ」(御書563頁)
【通訳】日蓮は、去年の九月十二日子丑の時刻に頚を刎ねられたのである。その魂魄が佐渡の国に至り、明くる年の二月、雪の中でこの書[開目抄]を認めて有縁の弟子に送るのである。経文には、末代の法華経の行者は恐ろしい大難を受けると説かれているが、その逢難など日蓮はいささかも恐ろしくはない、しかし、そのような覚悟がない者がこれを見るならば、さぞかし恐れおののくであろう。
と仰せられています。
丑の刻は陰の終わり、寅の刻は陽の始め、生の始めを意味します。また子丑は転迷、寅は開悟であり、その中間が丑寅の時刻です。
『上野殿御返事』に、
「三世の諸仏の成道は、ねうしのをわりとらのきざみの成道なり」(同1361頁)
と仰せのように、「子丑の刻(きざみ)」とは、大聖人の凡身の死の終わりである故に「頚はねられぬ」と仰せられたのであり、「魂魄」とは、上行日蓮の本地である久遠元初自受用身としての魂魄を顕されたものです。
すなわち大聖人は、文永八年九月十二日の丑寅の刻に、上行菩薩の再誕としての垂迹身を発い、久遠元初自受用報身如来、末法出現の御本仏としての本地身を顕されたのです。これを「発迹顕本」と言います。
御難会の意義
このように、大聖人が発迹顕本された重大な意義によって、総本山をはじめ各末寺では、毎年九月十二日に御難会を奉修し、御本仏大聖人に対して御報恩謝徳申し上げるとともに、不惜身命・身軽法重の精神で正法広布に邁進することを誓うのです。
大聖人は『如説修行抄』に、
「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚(はなは)だしかるべしと」(御書670頁)
【通訳】真実の法華経の如説修行の行者の弟子・檀那となるには、必ず三類の強敵が競い起こるのである。したがって、法華経の教えを聴聞し始めた日から、三類の強敵の大難が襲いかかってくることを覚悟しなさい。
と仰せられ、また『四条金吾殿御返事』には、
「此の経をきゝうくる人は多し、まこと聞き受くる如くに大難来たれども『憶持不忘』の人は稀なるなり。受くるはやすく、持つはかたし、さる間成仏は持つにあり、此のきょうを持たん人は難に値(あ)ふべしと心得て持つなり」(同775頁)
【通訳】此の法華経を聞いて信受する者は多い。しかし、大難が襲いかかって来た時であっても正しい信仰を忘れない人は稀である。受けることはたやすく、持ち続けることは難しい。しかし成仏するためには、持ち続けることが肝要である。法華経を持つ人は、必ず難に値うと心得て、いかなることがあって持ち続けなさい。
と仰せられています。
私達は、御難会に参詣して大聖人に御報恩謝徳申し上げると共に、大聖人が多くの大難を悠然と乗り越えられたお姿を自らの信行の鑑とし、妙法弘通を妨げるようと競い起こる諸難に屈することなく、弘宣流布に前進していきましょう。