彼岸会は、春分と秋分の日を中心とする前後七日の間に修する追善供養の法要のことです。
彼岸会の意味
彼岸会は、聖徳太子のころから行われてきた日本独特の風習です。現在では、先祖の追善供養をすることが主になっており、寺院に参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りすることが通例となっています。
「彼岸」という言葉は、梵語のパーラミターという語に由来しています。パーラミターは「波羅蜜」と音訳し、「至彼岸(彼の岸に至る)」また「度(渡る)」と音訳します。
仏教では、私たちが生活しているこの世界を穢土(えど)、または娑婆世界と言い、穢れた苦しみの世界であると説いています。そして、この娑婆世界を此岸(しがん=こちら側の岸)に、煩悩・業・苦の三道という苦しみを大河の流れに、涅槃(ねはん=成仏の境界)を彼岸(向こう岸)に、それぞれ譬えるのです。
此岸(穢土)から生死(しょうじ)の苦しみの大河を渡って、彼岸(浄土)に到達するためには、仏法という船に乗らなければなりません。
ところが、これにも、わずかな人数しか乗れない「小乗」という小さな船もあれば、大勢の人が乗ることができる「大乗」の船があります。
日蓮大聖人は『薬王品得意抄』に、
「生死の大海には爾前の経は或は筏(いかだ)或は小船なり、生死の此の岸より生死の彼(か)の岸には着くと雖(いえど)も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづ(届)きがたし」
【通訳】迷い苦しみの世界である生死の大海の中で、法華経以前の爾前経の教えは筏や小船のようなものであって、生死の此(し)岸から生死の彼(ひ)岸に着くことはできても、生死の大海を渡って彼岸の浄土に着くことはできない。
と仰せられ、また『椎地四郎殿御書』に、
「生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべ刈らず」(同1555)
と仰せられて、本当の彼岸に到達できるのは、大聖人の南無妙法蓮華経の大船のみであると教えられています。
大聖人の南無妙法蓮華経は、すべての仏法の究極である事の一念三千の法であり、これを信ずるならば、煩悩即菩提、生死即涅槃、娑婆即寂光という即身成仏の大功徳を得ることができるのです。
また大聖人は『一生成仏抄』に、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、浄土と云い穢土と言云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」
【通訳】衆生の心が穢れると死んでいる国土も穢れ、心が清らかになるとその国土も清らかになる。浄土と言い、穢土と言っても国土が別々にあるわけではない。ただ我らの心の善悪によるのである。
と仰せられ、彼岸といっても極楽という別世界があるのではなく、この世で成仏することが彼岸に至ることであると示されています。
彼岸に到達する方途
仏教では、彼岸に到達するための修行として、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の六波羅蜜を説いています。しかしこれは、成仏を志す菩薩が果てしなく生死を繰り返しながら、永遠とも言えるほどの長い期間にわたって行ずる歴劫(りゃっくこう)修行であり、末法の凡夫にできるものではありません。
大聖人は、無量義経の、
「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」(法華経43頁)
との文を引かれ、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することによって、自然に六波羅蜜の修行の功徳が具わり、彼岸(成仏の境界)に到達できると教えられています。
大聖人の仏法は、仏法の根本である久遠元初・独一本門の本法である故に、その当体である本門の戒壇の大御本尊を受持する一行に、あらゆる仏道修行の功徳が具わるのです。
大御本尊の受時に六波羅蜜の修行と功徳が具わっていることは、次のように考えることができるでしょう。
1.布施(ふせ):御本尊に財物を御供養申し上げること(財施)、折伏すること(法施)、広宣流布に向かって人々を救済していくこと(無畏施=むいせ)。
2.持戒(じかい):御授戒を受けて御本尊を受時し、謗法を行わないこと。
3.忍辱(にんにく):折伏時に非難されていても慈悲の心を持って耐え忍ぶこと。
4.精進(しょうじん):純粋な信心で不断に修行を実施すること。
5.禅定(ぜんじょう):御本尊に心を定めて勤行・唱題すること。
6.智慧(ちえ):以心代慧(信を以って智慧に代える)により、強盛な信心を持って修行に励むこと。
したがって、大御本尊を信じ、真剣に修行に励むことによって、即身成仏の境界を開いて彼岸に到達することができるのです。
以上のように、彼岸本来の意義は、まず生きている私達自身が正しい信心修行に励んで真の幸福境界を開くことにあります。さらに仏道修行によって自らに具わる功徳を回向し、先祖の追善供養をすることが大切となります。
彼岸会の意義
本宗において、秋春の彼岸会を修するのには深い意義があります。
彼岸の中日である春分・秋分の日は、昼と夜との時間が同じとなる日であり、これは陰陽同時・善悪不二を表しています。
天台大師は『法華文句』に、
「仏は中道を好みたもう」(文句会本上88頁)
と釈しています。
仏教では、昼と夜との時間が同じとなるこの時に善行を修する功徳は、他の時に行う功徳よりも勝(すぐ)れるとされるのです。
また、世間でも「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、この時機は一年で最も気候の良い時です。したがって、私達が功徳を積み、彼岸に至る絶好の時期であると言えるでしょう。
また、本宗で彼岸会を修するのは、正しい先祖供養の方法を知らない人に対し、大聖人の仏法による最高の追善供養の仕方を教える機会とするためです。
彼岸会は、日本国内で知らない人はいないと言えるほど、一般的な習慣となっています。
大聖人は、『大田左衛門尉殿御返事』に、
「予が法門は四悉檀を心にかけて申すなれば、強(あなが)ちに成仏の理に違(たが)はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用(もち)ゆべきか」
【通訳】私「大聖人」の法門は、四悉檀を心掛けて述べているのであり、成仏の道理に背くものでなければ、世間で行っていることを用いてもよいのである。
と仰せられています。
すなわち、彼岸会を妙法の御本尊のもとで修するならば、謗法の寺社への参詣を防ぎ、自身の成仏のための最高の修行と真の先祖供養を行うことになるのですから、その功徳は計り知れないほど大きいのです。
また、仏法には四恩が説かれ、知恩・報恩の大切さが教えられています。したがって、彼岸会には寺院に参詣して先祖の塔婆を建立し、御住職と共に御本尊に読経・唱題申し上げて回向するならば、故人は大功徳に浴し、安穏な成仏の境界へ至ることができます。
これに対し、他宗で行う彼岸会は無益であるどころか、謗法の儀式によって自らも先祖も共に悪道に堕ちることになってしまいます。
そのことを大聖人は、
「追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来たって(中略)訪(とぶ)らはるゝ過去の父母・夫婦・兄弟は弥(いよいよ)地獄の苦を増し、孝子は不孝、謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる」(唱法華題目抄・同224頁)
【通訳】追善供養を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧に頼んで弔うならば、亡くなった父母・夫婦・兄弟等はいよいよ地獄の苦しみを増し、供養を志した子供は不孝の謗法者となり、その儀式に参加した人々は、邪法によって喜ぶ悪魔の眷属となってしまうのである。
と仰せられています。
私達は、彼岸会の本来の意義を理解するとともに、日蓮正宗の彼岸会こそ成仏の要道であり、真の先祖供養となることを心得て、人々にこのことを教え、導いていきましょう。
本宗では、これらの意味から古来、「常盆・常彼岸」(常日ごろからお盆、彼岸の心持ちで追善供養に励むこと)と言われているのであり、他宗でいう彼岸とは全くその趣を異にしていることを忘れては成りません。