寛師会[日寛上人法要]総本山大石寺


 寛師会は、日蓮正宗の中興の祖である第二十六世日寛上人への御報恩のために、総本山において奉修されます。

日寛上人の御事蹟

 日寛上人は、寛文(かんぶん)五(1665)年八月七日、上野国(こうずけのくに)(群馬県前橋市)前橋藩士であった伊藤家に誕生され、俗名を市之進と称されました。
 十五歳ごろより江戸屋敷に勤めていた市之進は、天和三(1683)年、十九歳のとき、下谷の常在寺に隠棲(いんせい)されていた第十七世日精上人の説法を聴聞して出家を決意されました。そして同寺の後住(こうじゅう)となられた日永上人(のちの総本山第二十四世)の弟子となり、覚真日如(かくしんにちにょ)と称しました。
 そして常在寺や大石寺で修行し、また日永上人に随従して会津実成寺で給仕されたのち、元禄二(1689)年、二十五歳の時、上総の細草檀林(千葉県大網白里市)に入檀されました。
 細草檀林は、寛永十九(1642)年に敬台院殿(きょうだいいんでん)の助力を得て設立された僧侶の学問所で、元禄のころには多くの学僧が集い、天台三大部等の研鑚に励んでいました。
 日寛上人は、二十年にわたる研学の末、宝永七(1710)年ごろ、檀林の最高位である化主(けしゅ)に昇格して堅樹院日寛と号し『法華玄義』『法華文句』を講じられています。
 その後、正徳元(1711)年夏、大石寺の第六代学頭となって蓮蔵坊(学頭寮)に入り、大弐阿闍利と称して、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』をはじめとする重要御書の講義、さらに教義に関する多くの著述をなされるなど、宗門の興学に務められました。
 享保三(1718)年三月、第二十五世日宥(にちゆう)上人により血脈相承を受け総本山第二十六世の法主となられた日寛上人は、本宗教義の大綱を『六巻抄』としてまとめて他門流の邪義をことごとく破折し、下種仏法の正義を顕揚(けんよう)されました。
 享保五年二月十四日、日寛上人は第二十七世日養上人に法を付嘱され再び蓮蔵坊に入られましたが、同八年、日養上人の御遷化により再登座されています。
 享保九年には常唱堂建立を発願され、昼夜にわたる唱題の実践や信徒の育成に尽力され、さらには大石寺維持のための資金や五重塔の造営基金を残されるなど、仏法護持と宗門の興隆に尽くされました。
 日寛上人は第二十八世日詳上人に法を付嘱され、享保十一年八月十九日、安祥として御遷化されました。
 御遷化に先立ち、日寛上人は、自分は臨終の際に平生好んだ蕎麦を食し、唱題のうちに臨終を迎えるであろうと仰せられ、そのお言葉通りの御遷化の姿を示されて、御自身の御説法が大聖人の教えに寸分も違わないことを証明されました。
 このように、下種三宝への信を根本とする行学の実践を示し、血脈相伝の仏法を体系的に明示して邪義邪宗を破折され、総本山の維持営繕に丹精された数々の御功績から、古来、日寛上人は第九世日有上人と共に中興の祖と仰がれています。
 総本山における寛師会は現在、日寛上人の祥月命日を新暦に会わせ、九月の御命日に奉修されています。
 九月十八日、御法主上人の大導師のもと、客殿に次いで常唱堂(石之坊)において御逮夜法要が奉修されたのち、僧侶による布教講演が行われ、翌十九日には客殿に引き続き常唱堂における御正当会が修されたのち、墓参の儀が執り行われています。
 寛師会においては、日寛上人が好まれた蕎麦を御宝前にお供えするのが習わしとなっています。
 また十八日には、「日寛上人は相撲を楽しまれた」と伝わることから、僧侶や参詣者をはじめ多くの参加者によって奉納角力大会が開催され、合わせて花火が打ち上げられます。
 相撲の白熱した取り組みや、夜空に次々と打ち上げられる美しい花火は、多くの人々の目を楽しませ、総本山におけるこの時期の風物詩の一つとなっています。
 私達は、興学布教・令法久住に偉大な御功績を遺(のこ)された日寛上人の御恩にお応え申し上げるべく、一層、自行化他の実践に励んでまいりましょう。

土浦市の亀城公園に隣接した日蓮正宗のお寺です。お気軽にお訪ねください。